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歌川豊国

初代 歌川豊国(しょだい うたがわ とよくに、明和6年〈1769年〉 - 文政8年1月7日〈1825年2月24日〉)とは、江戸時代の浮世絵師。本名は倉橋 熊吉(くらはし くまきち)、後に熊右衛門。一陽斎(いちようさい)と号す。

江戸芝神明前三島町に住む、木彫りの人形師・倉橋五郎兵衛の息子として生まれる。三島町から芳町、堀江町へと移った後、上槙町に居住した。幼少期に歌川派の創始者歌川豊春の元で学び歌川豊国と称し、理想の美しさを表現した役者絵や美人画で絶大な人気を得た。天明6年(1786年)には処女作の絵暦『年始の男女』及び『狂歌太郎冠者(かじゃ)』の挿絵を発表し、天明8年(1788年)、黄表紙『苦者楽元〆(くはらくのもとじめ)』の挿絵あたりから本格的に画業を開始、以降作画は最晩年の文政7年まで及んだ。天明期は習作期であったが、寛政2、3年(1790年-1791年)頃から、和泉屋市兵衛より美人画を出し、次第に豊春風を脱却、清長風や歌麿風を取入れながら、独自の様式を模索していた。

寛政6年(1794年)5月、和泉屋市兵衛から豊国による「役者舞台之姿絵」の連作が出版された。これは単調な背景に浮き上がる当時の人気役者の舞台姿を描いたもので、清新な画風が好評であった。既に寛政4年に勝川春章は世を去り、春英らが役者絵を描いて活躍していたが、人々は新しい風を期待していた。そこに豊国の役者絵「役者舞台之姿絵」が登場したのであった。この「役者舞台之姿絵」は大変な好評で、寛政8年(1796年)までの間に40点以上が制作されている。その後大首絵などの役者絵、芝居絵を独占する様になり、文化文政(1804-30年)年間には舞台上の役者を客観的に捉え、三枚続に一場面を舞台の背景も加えて描き、より一層大衆の人気を得るに至った。その後次第に様式化していくが、時代の好みを敏感に摑み、いっぽう美人画においても歌麿、栄之などの影響も見られるが、時代の要求に応じた粋と侠艶の婀娜な女性美を描く歌川派様式を創り出し、文化期になると、粋の美へと画風が変化した。さらに読本、絵本、合巻の挿絵など幅広い分野に活躍し、合巻に出てくる登場人物の顔を役者の似顔絵にしたのも豊国が最初であった。

代表作として前述の「役者舞台之姿絵」の他、「風流芸者身振姿絵」、『役者此手嘉志和』、『絵本役者三階興』、『絵本時世粧』などがあげられる。また肉筆画も、すっきりした江戸前の雰囲気を持っている。最も初期の肉筆画として「春の愁図」、「雪の訪問図」などがあげられる。また「菖蒲持つ女図」も初期に属す優品として著名で、まだ後年の豊国様式の確立前の穏やかな画風を示している。これに対し文化13年(1816年)春の作画と推定される「時世粧百姿図」(絹本二十四葉、ウェストンコレクション)になると、やや目の釣上った容貌の美人で、いかにも豊国らしい作品に仕上がっている。多くの門弟を育て、幕末に至る歌川派の興隆をもたらした。享年57。墓所は三田聖坂の功運寺(大正11年〈1922年〉に中野区上高田へ移転)。法名は得妙院実彩麗毫信士。

豊国は妻との間に一男一女をもうけるが、実子の直次郎は版木師となっており、浮世絵は描かなかったといわれる。長女はきん(歌川国花女)といった。

主な門人として歌川国政、歌川国長、歌川国貞、歌川国安、歌川国丸、歌川国直、歌川国芳、歌川国虎、二代目豊国、歌川国種、歌川国綱があげられる。歌川広重も入門を希望したが、門生満員で断られたという。歌川派の中興の祖となった豊国はこのように多数の弟子たちを抱え、浮世絵界における最大派閥を形成した。そしてその流れは国芳を通じて大蘇芳年、水野年方、鏑木清方、伊東深水へと続いていったのである。なお版元の和泉屋は、明治維新後も教科書販売として存続した。

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