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歌川国芳

歌川 国芳(うたがわ くによし、寛政9年11月15日(1798年1月1日 ) - 文久元年3月5日(1861年4月14日))は、江戸時代末期の浮世絵師。

画号は文政初年から万延元年にかけて一勇斎国芳といい、後に彩芳舎(文政中期)、朝桜楼(天保初年から万延元年)、雪谷、仙真とも号した。歌川を称し、狂歌の号に柳燕、隠号に一妙開程芳といった。江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人であり、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した。

寛政9年(1798年)、江戸日本橋本銀町一丁目(現在の東京都中央区日本橋本石町四丁目あたり)に生まれる。父は京紺屋(染物屋)を営む柳屋吉右衛門。幼名は井草芳三郎。後に孫三郎。風景版画で国際的に有名な歌川広重とは同年の生まれであり、同時代に活動した。壮年時には向島に住む。

三囲神社碑文 によれば、国芳は幼少期から絵を学び、7、8歳で北尾重政の『絵本武者鞋』や北尾政美の『諸職画鑑』を写し、12歳で描いた「鍾馗提剣図」を初代歌川豊国(1769年 - 1825年)が目に留め、文化8年(1811年)に15歳で入門した という。豊国は華麗な役者絵で一世を風靡した花形絵師であり、兄弟子に歌川国貞(1786年 - 1864年)がいる。国芳の名は入門の数年後、文化10年(1813年)頃の刊行とみられる戯作者・浮世絵師の相撲見立番付の前頭27枚目に挙げられており、翌文化11年(1814年)頃刊の合巻『御無事忠臣蔵』(竹塚東子作)表紙と挿絵が初作とされる。翌文化12年(1815年)の錦絵「市川市蔵の金輪五郎今国・三代目中村歌右衛門のおみわ」(『妹背山女庭訓』)頃から一枚絵を制作し始めており、この年の錦絵に『三世中村歌右衛門の春藤次郎左衛門』がある。また、文化13年(1816年)には錦絵「浅尾勇次郎・五代目岩井半四郎・七代目市川団十郎」(『清盛栄花台』)を描いており、本作は斎号を用いた年代を特定できる最初の作品であった。国芳は学資が乏しく月謝が払えないので、すでに歌川派を代表していた兄弟子・歌川国直の家に居候し、彼の仕事を手伝いながら腕を磨く。この時期は役者絵や合巻の挿絵などを描いていたが、あまり人気が出ず作品も僅かであった。また、勝川春亭にも学んでおり、さらに葛飾北斎の影響も受け、後に3代堤等琳に学んで、雪谷とも号した。

文政初年、錦絵『平知盛亡霊図』や『大山石尊良弁滝之図』によって一時は人気を得たが、文政6年(1823年)ころ銀座の川口屋正蔵及び日本橋の川口屋長蔵という版元から役者絵を出すも、師豊国や兄弟子国貞の人気に勝てず、その後しばらくは不遇であった。そして師の豊国没後の文政10年(1827年)頃に発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』という『水滸伝』のシリーズ が評判となる。“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りを果たした。『東都名所』などの西洋の陰影表現を取り入れた名所絵(風景画)にも優れており、美人画や役者絵、狂画(戯画)にも多くの力作を残している。

その後、天保元年(1830年)頃、新和泉町玄冶店の借家に住始め、朝桜楼の号を使用し始めた。この頃、武者絵、洋風風景画、美人画、魚類画、風刺画などを近代的な写実眼によって制作している。

天保6年(1835年)、歌川芳宗が入門する。国芳は天保8年(1837年)12月までには向島に移り住んでいる。ところが国芳45歳の時、運命は一変する。老中・水野忠邦による天保の改革。質素倹約、風紀粛清の号令の元、天保13年(1842年)には国芳や国貞らも人情本、艶本が取締りによって絶版処分となる。また浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受ける。江戸幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。『源頼光公館土蜘作妖怪図』(1843年(天保14年))は、表向きは平安時代の武将源頼光による土蜘蛛退治を描いたものだが、本当は土蜘蛛を退治するどころか妖術に苦しめられているのは頼光と見せかけて実は、将軍・徳川家慶であり、国家危急の時に惰眠をむさぼっているとの批判が込められている。主君が危機だと言うのにソッポ向く卜部季武と見せかけ、天保の改革の中心人物、老中・水野忠邦である。また、着衣の家紋や模様から、他の頼光四天王で碁を打っている渡辺綱は真田幸貫、坂田金時は堀田正睦、湯飲みを持っている碓井貞光は土井利位、土蜘蛛は筒井政憲、矢部定謙、美濃部茂育を指すとされ、他の小物類も当時の人物たちとされる。そして奥にはユーモラスな妖怪たちがいるが、実は天保の改革の被害者たちである。富くじが禁止された富くじ妖怪、歯のないろくろ首には歯なし→噺など寄席の禁止を恨んだものなど、絵のいたるところに隠されている悪政に対する風刺が込められている。江戸の人々は謎を解いては溜飲を下げて大喜びした。しかし、幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。国芳は何度も奉行所に呼び出され、尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。それでも国芳の筆は止まらず、禁令の網をかいくぐりながら、幕府を風刺する国芳に江戸の人々は喝采を浴びせた。国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。

弘化元年(1844年) 国芳は葛飾北斎門人の大塚道菴の紹介により、北斎と出会っている。なお、この時、独楽廻し竹沢藤治の絵看板を描く際、この道菴を雇って補筆させた。同年、『縞揃女弁慶』において芳桐印を使用する。弘化3年(1846年)に大判3枚続の錦絵『里すずめねぐらの仮宿』が雀の衣服の紋に名主印が捺されたことで問題となった。やがて目の上のタンコブであった水野忠邦は失脚。国芳は待ってましたとばかりに弘化から嘉永期には奇想漲る武者絵3枚続を描いて江戸の人々の度肝を抜く武者絵を世に送り出して新機軸を見せた。国芳の描いた『宮本武蔵と巨鯨』(1848年(嘉永元年) - 1854年(安政元年))は、浮世絵3枚分に描かれたまるで大スペクタル絵画である。武蔵の強さを表現するのに相手が人間では物足りない。桁違いの鯨と戦わせることでヒーロー武蔵の強さを伝え、国芳を称える声が満ち溢れた。

武者絵で大成功を収めた国芳は、1人の絵師として気にかけていたものがあった。国芳は『近江の国の勇婦於兼』(1830年(天保元年))で、画面左側の女性は伝統的な美人画の技法で描かれているが、対する馬はまるで西洋画のようにリアルな立体感が陰影によって描かれている。実は国芳は当時なかなか手に入れることができなかった西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の付け方の研究に励んでいた。国芳は「西洋画は真の画なり。世は常にこれに倣わんと欲すれども得ず嘆息の至りなり」と語っている。そんな国芳が56歳の時、新たなシリーズの製作に取り掛かった。それは47人の志士が揃う忠臣蔵である。国芳はこの作品を新しく学んだ西洋画の技法で描いてみようと思い立った。この時代、公儀に逆らった赤穂浪士を称えることはご法度であり、あくまで戯曲化され、舞台で演じられる役柄として描くしかなかった。ところが西洋画を学んだ国芳はかつてのような派手な見得を切る大石内蔵助ではなく、実在の人物としてリアルに描こうとした。国芳が生み出した迫真のヒーロー像であったが、派手な浮世絵を見慣れている当時の人々にとって写実的な肖像画は受け容れられず、すぐに打ち切りとなった。

国芳が赤穂浪士を描いた翌年の嘉永6年(1853年)、浦賀にはペリーの黒船が来航した。また、同年に国芳は新和泉町玄冶店に居住しており、6月24日に料理茶屋河内屋で梅屋鶴寿主催の書画会において30畳敷きという大紙に『九紋龍史進憤怒の図』を自らの着物を墨に浸してえがいている。同年7月、大判2枚続『浮世又平名画奇特』の絵が時世を風刺したとしてお咎めを受ける。安政3年(1856年)初め頃に中風を患い、4年前後辺りから人物描写に硬直味が見られ、描線に鈍さが出て、動感に乏しい作品が目立ち始める。安政5年(1858年)に弟子の歌川芳虎を絶縁、行事衆に届ける。万延元年には横浜絵を制作するが、華々しい武者絵の世界を築いた国芳はひとつの時代の終焉に合わせるかのように文久元年(1861年)に65歳の生涯を閉じた。墓所は最初浅草八軒寺町、大正初めに千住に移され、戦後は小平市上水南町511の大仙寺。法名は深修院法山信士。墓石に井草と記されている。国芳には歌川芳虎、歌川芳艶、落合芳幾、歌川芳藤など多くの門弟がおり、「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年や、幕末から明治前期に活躍した異色の絵師・河鍋暁斎も国芳に弟子入りしたことがあった。また、その画系は玄冶店派といわれており芳年、年方、清方、深水という風に昭和期にまで続いている。

作品は役者絵、武者絵、美人画、名所絵(風景画)から戯画、春画までさまざまなジャンルにわたっているが、中でも歴史・伝説・物語などに題材を採り、大判3枚つづりの大画面に巨大な鯨や骸骨、化け物などが跳梁するダイナミックな作品に本領を発揮している。反面、肉筆画の作品は種類は多彩だが、現存数が少ない。現在確認されている錦絵の作品数は、5300枚余に及ぶ。

国芳は無類の猫好きとしても知られ、常に数匹、時に十数匹の猫を飼い、懐に猫を抱いて作画していたと伝えられる。内弟子の芳宗によると、亡くなった猫はすぐに回向院に葬られ、家には猫の仏壇があり、死んだ猫の戒名が書いた位牌が飾られ、猫の過去帳まであったという。それだけに猫の仕草に対する観察眼は鋭く、猫を擬人化した作品も多い。山東京山著『朧月猫草帋』(天保13年(1842年 ) - 嘉永2年( 1849年)) がある。特に斑猫を好んだらしく、絵に登場する頻度も高い。門弟たちにも猫を描くのを勧めたと言われ、 国芳以降、浮世絵に猫が描かれる頻度が増加する。猫に限らず、狸・雀・蛸などの身近な動物を擬人化して世相を風刺したり、動物に託して江戸の庶民の生活を描写した作品も豊富で、これらからは現代日本にてますます盛んな漫画・劇画の源流の一つを見る事ができよう。

「寄せ絵」、自宅で絵を描く自身の顔の前を、絵の中の動物や人物が横切り、自身の顔を隠している「自画像」のような遊び心のある作品も国芳の得意としたものである。これには、西洋のジュゼッペ・アルチンボルドなど舶来画からの影響がしばしば指摘される。しかし、国芳以前から寄せ絵の伝統はあり、文化・文政期には身の回り様々なものを組み合わせた作りものを公開する細工見世物や、竹の篭目を編んで人物や動物を作り上げ、その大きさは時には高さ20メートルにも及んだという駕籠細工などの見世物が催されており、国芳はこうした見世物からアイデアを思いついたとしても不思議ではない。

華美を戒める天保の改革(1841年 - 1843年)以後、幕府の禁令によって役者や遊女の1枚刷り錦絵は出版不可となるが、国芳はこのような世相の下、持ち前の江戸っ子気質を大いに発揮している。「ヘタウマ」の元祖のように『荷宝蔵壁のむだ書』のように壁の落書きを写し取ったという方便を使ったり、魚の顔を役者の似顔にしたりするなど、さまざまな便法で禁令を潜り抜け、絵師は役者の似顔を世に送り出し続けた。

2008年、富山県の農家の蔵から国芳を中心とした歌川派の版木が368枚発見され、購入した国立歴史民俗博物館により2009年に公開された。これにより、国芳作品の創作過程の解明および浮世絵本来の色の復元が始まっている。この版木については同年4月12日放送のBShi「ハイビジョン特集 幻の色 よみがえる浮世絵」、5月16日放送のNHK総合「ワンダー×ワンダー 浮世絵 よみがえる幻の色」で取り上げられた。「東都三つ股の図」に描かれているのは「東京スカイツリー」を予見していたとして話題になったが、井戸掘りの櫓(やぐら)ではないかと推察される。

国芳はまた、柴田是真(蒔絵師、画家)、渡辺崋山(田原藩家老、学者、画家)ら当時の文化人とも交流があり、画風にも当時の新知識を彼なりに研究・吸収した跡が見られる。国芳は年下の是真に教えを乞い、国芳の画力を知る是真はそんな資格はないと一度は断った。しかし、国芳の熱意に負け是真は願いを容れて、国芳に「井草仙真」の号を贈ったという。この名が記された国芳の作品はなく信憑性に疑問が残るが、国芳の肉筆画「舌切り雀図」(天保初期、紙本淡彩、個人蔵)には是真の影響が認められる。

『相馬の古内裏』という作品に登場する巨大な骸骨(「国芳画廊」の項を参照)は、西洋の解剖学の書物を研究した成果である。特に1682年オランダで出版された旅行家ニューホフ著『東西海陸紀行』の挿絵に、国芳作品の典拠が多数発見され、同書を国芳が所持していたことを思わせる。例えば『忠臣蔵十一段目夜討之図』では、西洋画の透視画法(遠近法の一種)を学び、画面に奥行きと緊張感を与えている。

平成23年(2011年)には、没後150年を記念して「没後150年 歌川国芳展」が4月12日から6月5日まで大阪市立美術館 、7月9日から8月21日まで静岡市美術館 、12月17日から翌2012年2月12日まで森アーツセンターギャラリー(六本木ヒルズ)で開催された。

平成26年(2014年)3月14日、国際天文学連合は歌川国芳を記念して、水星のクレーターの一つを Kuniyoshi と命名したと発表した。

国芳作品の画像が掲載されている全項目のうち、人物と作品およびその背景、もしくは項目記事との関連性の理解につながると思われるものに限り、ここに示す。

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