ホーム > 歌川国鶴

歌川国鶴

歌川 国鶴(うたがわ くにつる、文化4年〈1807年〉 - 明治11年〈1878年〉3月19日)とは、江戸時代後期から明治時代初期にかけての浮世絵師。

国鶴は、二代目歌川豊国の甥で四代目歌川豊国と呼ばれるもう一人の人物。香蝶楼、一陽斎を名乗った四代目歌川豊国とは別人。

二代目歌川豊国の門人で、その甥。

本姓は和田、名は安五郎。歌川の画姓を称し一寿斎、一雄斎と号し、二代目豊重とも称す。江戸築地に生まれたが、天保8年(1837年)以降大坂に住む。安政2年(1855年)ごろ江戸に帰り、浅草花川戸の戸沢長屋に住んだ。この頃新門辰五郎の知遇を得る。安政2年の大地震に遭遇、後に下谷広徳寺横町に移る。さらに安政6年(1859年)以降は横浜に移住し、横浜絵を描いている。はじめ本村(現在の元町)、後に馬車道に住む。横浜火災の後、埋立地の翁町に移り、さらに横浜吉田町で明治10年(1877年)に絵草紙屋を開業しその地で没した。享年72。墓所は港区芝の増上寺内常行院。

作画期は天保の頃から没年までで、作には横浜絵や絵草紙の挿絵、役者絵、他に刺子襦袢の下絵、奉納扁額絵、地口行灯絵、刺青の下絵、肉筆浮世絵なども描いた。ホワイトハウスヒストリカル協会には、1879年(明治12年)6月に来日したグラント元大統領が持ち帰った国鶴の作品6点が所蔵されている。

Wikipedia