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蹄斎北馬

蹄斎 北馬(ていさい ほくば、明和7年(1770年) - 弘化元年8月6日(1844年9月17日))とは、江戸時代後期の浮世絵師。

葛飾北斎の門人。北斎の弟子の中では筆頭にあげられ、魚屋北渓と共に双璧とされる。姓は有坂、本姓星野、俗称五郎八。諱は光陰。蹄斎、駿々斎、駿々亭、秋園などと号す。

江戸の生まれで、下谷御徒町(現台東区台東)神田に住む貧しい御家人の家に生まれた。しかし武家務めを窮屈に思い、文政元年(1818年)までに家督を弟に譲って隠居・出家し、画で家計を助けるため北斎に入門したという。入門時期は不明だが、北馬最初の版本『狂歌花鳥集』は寛政12年(1800年)に刊行していることから、入門はこの数年前だと推測される。

初期の寛政から文化期にかけては制作した制作した狂歌本や読本、摺物には北斎の影響が顕著である。北馬の画風は北斎に比べて柔らか味がある独自のもので、滝沢馬琴、高井蘭山、振鷺亭らの読本の挿絵を、文化9年(1812年)までに少なくとも60種類発表し、同門の北鵞と合作で黄表紙の挿絵も描いた。一方で浅草庵市人に狂歌を習い、狂歌集に歌が掲載されるとともに、狂歌摺物などを多数制作している。しかし一枚刷りの錦絵は殆ど手掛けていない。文化10年(1813年)頃の刊行と見られる戯作者と浮世絵師の見立相撲番付では歌川豊国、国貞についで第三位の小結の位置を占めており、名声を博していたことが窺える。文政期からは肉筆画にほぼ専念し、天保期に入ると北斎風から離れ独自の画風を確立した。特に彩色に長じ、左筆を良くし、また肉筆美人画に秀作が多い。一方、春画の作例は少ない。

肉筆画の数は多く、200点、或いは300点を超えるともいわれる。師風に追随せず、歌川派の作風をも取入れて独自の画風を創出しており、「春風美人図」などに見られる玉子形の顔に細い顎、両目の間がやや離れて下唇が突き出した容貌は、北馬の美人画の画風を良く示している。この図には「北馬」という落款があるが、通常は「蹄斎」と款している場合が多いので、「浅妻船図」(大英博物館所蔵)など比較的少数の作品に見られるものである。

北馬は資性孝順で、老親に仕えることに最も篤かった。当時、盛名の高かった谷文晁は北馬の至孝に感じ入りその生計を援助し、安心して親に仕えさせている。そうして文晁は自ら描く密画の模様などを、北馬に手伝わせたりした。伝えるところによれば北馬は、文晁の作品の手伝いをする時には、この右手は師の用にのみ供すべきものであるからといって師の北斎の許可を得た後、左筆のみでその用事を済ませたといわれる。

49歳で剃髪し、弘化元年に75歳で没した。菩提寺は不明。門人には龍斎逸馬、叢斎遊馬、蜂房秋艃、宗寿、雪馬、牧亭集馬、らがおり、北馬の子は二代目北馬を称している。

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