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暁鐘成

暁 鐘成(あかつき かねなり、寛政5年(1793年) ‐万延元年12月19日(1861年1月29日))は、江戸時代の大坂の浮世絵師、戯作者。

蘭英斎芦国の門人かといわれる。大坂の人。姓は木村、名は明啓。通称は弥四郎。実名の明啓のほかに鶏鳴舎、尭晴、暁晴、暁晴翁、気野行成、繁雄、鴛鴦亭、鴛鴦亭主人、暁鐘成一世、嫚戯堂、あるいは実父の屋号「和泉屋」に連なる和泉屋弥四郎、泉屋弥四郎、妻が切り盛りした料理店の屋号と同じ美可利屋あるいは手鍋庵などと号する。鹿廼家の号は、自宅で鹿を飼育していたことによる。

寛政5年(1793年)、大坂西横堀福井町上で醤油醸造業を生業とする名家、和泉屋の3代目太兵衛(『名人忌辰録』による)の妾腹の第4子として生まれ、後に分家の2代目和泉屋平八に預けられた。本町4丁目、博労町、天王寺南平野町、難波村北ノ町などに居住していた。

作画期は享和(1801年‐1804年)頃から嘉永6年(1853年)とされ、戯作・狂歌をよくし、文才に秀でており、前半生は主に読本、根本、滑稽本、洒落本、名所図会、狂歌本、随筆考証、有職故実、啓蒙指南書、民家必携の雑書などの著述をしながら、心斎橋筋博労町において、各地の名所を模した麩、味噌、菓子などを扱う店「鹿の家」を営んでいた。この店は繁盛した様であったが、天保の改革により閉店せざるを得なかった。後に難波瑞竜寺門前にサロンのような茶店「美可利家」を開き、これを妻に営ませて、鐘成自身は著作に専念した。

鐘成は様々な著作を残しており、存命中に刊行された『浪花当時人名録』(嘉永元年(1848年)刊行)という書物では木村弥四郎の名前が「雑家」として分類されている。なかでも異色なものは、天保2年(1831年)刊行の自画編の『算法稽古図会』1冊で、吉田光由による著名な和算書『塵劫記』をもとにしつつも、ねずみ算の挿絵など、鐘成の絵が冴える作品である。また、動物に関する書『犬狗養畜伝』1冊では犬の飼い方から記述は症状別の薬に及ぶ。

前述のように、鐘成の著作は啓蒙書、名所図会、洒落本、読本、有職故実、随筆、狂歌などと極めて広範囲に及んでおり、その博覧強記ぶりが知られ、日本古典籍総合目録によると、その作品は104編に上っている。幕末期の大坂における出版界では最も人気のある戯作者であったといえる。

万延元年(1860年)10月頃、妻の親類を訪ねて丹波国福知山に遊んだ折、朽木騒動に連座、百姓一揆の檄文が忌諱に触れたとして入牢され、釈放後20日余りで急死した。享年68。墓所は大阪市北区大淀の勝楽寺にある。

嘉永6年(1853年)に鐘成は還暦を祝して門人の安部貞昌に「暁鐘成」の号を譲り、以降は作画を松川半山に任せて、自らは晴翁と号し、専ら文作に専念したといわれる。この安部貞昌の方を鐘成と区別して2世暁鐘成と呼び、嘉永6年以降の著作目録においては1世の作品と2世の作品とが混在していると考えられるが、識別することは難しい。

また、『原色浮世絵大百科事典』第2巻によると、鐘成の子が2代を、孫が3代を継いだともいわれている。なお、後に分家筋から輩出した5代目木村平八とその長男、木村騰は大坂において『朝日新聞』の設立に関わる。

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