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春好斎北洲
春好斎北洲
小姓吉三郎 あらし小六(四代目) 八百屋お七 岩井半四郎(五代目)
春好斎北洲
和泉ノ三郎 市川鰕十郎(初代) 一世一代 五斗兵衛 中村歌右衛門(三代目)
春好斎北洲
金輪五郎今国 中村歌右衛門(三代目)、おみわ 嵐小六(四代目)
春好斎北洲
一世一代当狂言 おその 中村歌右衛門(三代目)
春好斎北洲
遠城治左衛門 中村歌右衛門(三代目) 生田伝八 市川鰕十郎(初代) 春藤幾八郎 市川団蔵(五代目)
春好斎北洲
しづかのまへ 中村松江(三代目中村松江の静の前) 狐忠信 中村歌右衛門(三代目)、速見藤太 浅尾国蔵(初代)
春好斎北洲
牛若丸 あらし小六(四代目) 鬼一法眼 中村歌右衛門(三代目) 智恵内 市川鰕十郎(初代)
春好斎北洲
道行死出の旅立 嵐橘三郎 沢村田之助(初代嵐橘三郎と二代目沢村田之助の死絵)
春好斎北洲
一世一代当狂言 熊谷治郎直ざね 中村歌右衛門(三代目)
春好斎北洲
桂中納言実は伊勢新九郎 市川鰕十郎(初代) 細川勝元 浅尾額十郎(初代) 高はしの局実は美濃庄九郎 中村歌右衛門(三代目)
春好斎 北洲(しゅんこうさい ほくしゅう、生没年不詳)とは、江戸時代の大坂の浮世絵師。
松好斎半兵衛の門人でのちに葛飾北斎に入門したといわれている。俗称治兵衛。初名は春好、後に春好斎、雪花亭と号す。大坂の椹木町、石屋橋東詰に住んだ。当初半兵衛門人として活動していたが文政元年(1818年)、春好斎北洲と改名し北斎が使った「よしのやま」の印を用いている。また翌文政2年刊行の北斎の絵手本『北斎画式』には、「摂陽浪花校合門人」として「雪花亭北洲」の名があり、以後の画風にも北斎風が伺えるという。ただし北洲が、北斎から実際に絵の指導を受けたかどうかは定かではない。
大判錦絵に限れば約300点を残したといわれ、上方では質量ともに最大量の役者絵を残した浮世絵師であった。北洲は流光斎如圭や松好斎の様式を受け継ぎ、それに役者が映える姿を強調する江戸の趣味を加味して、上方役者絵を完成に導いており、文政以降の上方絵の方向性を決定づけている。役者絵の中では、大首絵、舞台画に特色があり、読本、芝居根本などにも描いていた。文化6年(1809年)から天保3年(1832年)までにかけての作品が知られているが、文政期前半が北洲の最盛期で、半身像の大首絵に名品が多く見られる。他に門人の春蝶、春陽斎北敬などと2枚続の錦絵を合作したものもある。肉筆による役者絵も描いている。春曙斎北頂、春梅斎北英を始め春暁斎北晴、春旭斎北明、北心斎春山、春信及び彫師の嘉助など北洲の門人は多く、蘭英斎芦国系と上方の浮世絵界を二分する勢力を形成した。他にも北松、楳莚、春敬、春渚(春要)、画登軒春芝、春子、春錦、春郷が門人であったと推定されるが寡作の絵師が多かった。