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流光斎如圭

流光斎 如圭(りゅうこうさい じょけい、生年不明 - 文化7年〈1810年〉)とは、江戸時代の大坂の浮世絵師。

蔀関月の門人。姓は多賀、諱(あざな)は如圭、英昌。通称慈平。大坂北堀江、難波新地などに住む。安永6年(1777年)頃から狂歌本や絵本の挿絵を描いた。月岡雪鼎没後の上方を代表する浮世絵師であった。天明4年(1784年)の『旦生言語備』(やくしゃものいわい)で50名の役者を描いて江戸の勝川春英や勝川春好の役者絵の影響を受けた独自の上方絵を確立した。

寛政4年(1792年)頃から細判一枚摺の役者絵も出すようになり、上方役者絵流行の基礎を築いた。作画期は文化年間までである。寛政2年(1790年)には舞台図を集めた絵本『画本行潦(えほん にわたずみ)』を刊行、寛政6年(1794年)に芝居絵本『絵本花菖蒲』、寛政8年(1796年)に滑稽本『通者茶話太郎』(鉄格子作)、寛政9年(1797年)に八文字屋自笑作の『桐の島台』、寛政12年(1800年)に芝居絵本『役者百人一衆化粧鏡』(八文字屋自笑作)、享和3年(1803年)に芝居絵本『劇場画史』、文化元年(1804年)に芝居絵本『三都劇場草の種(さんがのつ しばい くさのたね)』などを自筆刊行している。

如圭の役者絵は細判・大判ともに理想化されやすい江戸の錦絵に比べてより個性的で写実的な精神が貫かれ、これが上方絵に深い影響を与えることとなった。芝居に関係する『劇場画史』や『三都戯場草の種』などの著作もあるが、錦絵は比較的少ない。肉筆浮世絵となるとさらに少なく、寛政年間に描いた『狂言尽図巻』(紙本着色・千葉市美術館所蔵)など数点が知られるのみである。

俳諧を得意としており、芝居関係書、滑稽本(こっけいぼん)、狂歌本、読本などの挿絵も多い。門人に松好斎半兵衛、二代目流光斎、蘭好斎らがいる。

かつて東洲斎写楽と関係があると論じられたこともあった。市販書やインターネット上の記事ではしばしば「三隅貞吉が雑誌論文「写楽の新研究」(『日本美術・工芸』昭和23年3月号)で写楽の正体を流光斎如圭とする説を発表した」といった趣旨の記述が行われているが、実際には同論文は上方絵と写楽の役者似顔絵の共通性を論じたものであり、如圭の話題は出てくるものの、同論文の中で写楽と如圭の同一人物説を唱えたという事実はない。

袋カッコ内は上演された歌舞伎の演目を示す。

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