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小林永濯

小林 永濯(こばやし えいたく、天保14年3月23日〈1843年4月22日〉 - 明治23年〈1890年〉5月27日)とは、江戸時代から明治時代にかけての浮世絵師、日本画家。画号は鮮斎(せんさい)永濯。

狩野永悳(えいとく)の門人。名は徳直または徳宣。俗称は秀次郎。鮮斎永濯の他に永躍、永瑞、霞堂、永洲、夢魚、梅花堂と号す。

日本橋魚河岸新場の魚問屋、三浦屋吉三郎の子として生まれた。生まれつき病弱で潔癖性なため魚に触れたがらず、独り絵筆に親しんだという。安政2年(1855年)13歳の時、中橋狩野家の狩野永悳に就いて狩野派の絵を学んで認められ、徳宣の名と、永濯または永瑞の号を与えられる。18歳の時、近江国(現・滋賀県)彦根藩井伊家のお抱え絵師石井永珉の養子となる話がきたが、桜田門外の変により流れてしまう。次いで一時期は同門で、姫路藩の御用絵師でもあった狩野永洲の養子となり、この時に永洲と号したともいわれている。元治元年(1864年)に官を退き、日本橋通町に画室を構える。この頃、百鬼夜行の錦絵版下を描いたため、浮世絵と関わるのを禁止していた狩野派の中で問題となり、明治3年(1870年)頃から浮世絵に転向する。このとき永濯は河鍋暁斎と親交があり、暁斎が永濯をかばって面倒を見たといわれる。飯島虚心によると、永濯は暁斎の数少ない画友の一人で、常に画法を論じ合っていたという。他にも永濯は礼節を重んじる温和な性格の故か、当時多くの絵師と交流があったとされる。明治5年(1872年)には月岡芳年とともに甲府へ旅行をしている。

明治7年(1874年)の『耶蘇一代弁妄記』挿絵を初めとして、同年『義烈回天百首』、翌8年『近代報国百人一首』など挿絵の制作が活発化している事から、絵師としての地位も確立されたことが推定できる。明治9年(1876年)、永濯が両国中村楼で書画会を開いた際の新聞記事には「浮世絵では東京一の大先生の会だけに賑やか」だったと記されている。また、この書画会では、高橋由一、横山松三郎、守住勇魚、チャールズ・ワーグマンらの作品も展示しており、永濯が洋画家たちとも交流していたのが分かる。明治10年(1877年)には、導入されたばかりの学制に対応した指導方法を解説する『小学入門教授図解』挿絵も手掛けた。

続けて西南戦争(1877年)の戦争絵、新聞の挿絵のほか、明治17年(1884年)に刊行した『鮮斎永濯画譜』、明治18年(1885年)から明治23年(1890年)に刊行した『永濯漫画』初編・2編のほか『万物雛形画譜』『近世紀聞』『明治太平記』などの絵本の他、狂画、肉筆画を手がけた。明治10年(1877年)の第1回内国勧業博覧会に『天照大神、素戔嗚尊、問答』と『神武天皇命鳥ノ図』を出品して花紋賞を受賞。更に明治18年(1885年)鑑画会第一回大会に『僧祐天夢に不動を見る図』で一等賞を受賞する。また、明治20年(1887年)には、新吉原灯籠の会において、月岡芳年と一緒に灯籠に歴史画を描いている。1889年(明治22年)に創刊された日本初のグラフィック雑誌風俗画報において、健筆をふるっていた。

永濯の絵は狩野派で本格的に修行しただけあって、正統的な技量の持ち主である。しかし永濯は狩野派の粉本主義に飽き足らず、明画の筆意を会得し、陰影などの西洋の写実を取り入れ、写真を利用するなど新鮮味を出すことを心がけた。和漢と西洋の技法が一体となった永濯の作品は、他の浮世絵と異なり丁寧で上品な気分が漂う。明治23年持病の肺病により向島小梅村の寓居で没す。享年48。墓所は、世田谷区松原の正法寺。法名は大行院徳宣釈永秀居士。

門人に養子となった小林永興の他、富岡永洗、村田永挙らがいる。明治35年(1902年)、永濯十三回忌に亀戸天神境内に「鮮斎永濯碑銘」が建てられた。永濯の作品は在日欧米人から評価が高く、永濯の作品は現在確認されている以外にも、海外に多数存在すると言われている。

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