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北尾重政

北尾 重政(きたお しげまさ、元文4年〈1739年〉 - 文政3年1月24日〈1820年3月8日〉)とは、江戸時代中期の浮世絵師。北尾派の祖。

本姓は北畠で、戦国大名北畠氏の末裔だという。幼名太郎吉。俗称久五郎、後に佐助といった。諱は兼儔、字は非羸。画姓を北尾と言い、重政(繁昌、恭雅とも)、碧水、紅翠軒、紅翠斎、一陽井、台嶺、北峰、北鄒田夫、時雨岡逸民、恒酔天、酔放逸人、了巍居士と号す。また俳名や画号として、花藍、華藍と称している。

江戸小伝馬町の書肆(本屋)須原屋三郎兵衛の長男として生まれる。父の三郎兵衛はもと須原屋茂兵衛という大店の版元に長年年季奉公した功により、のれん分けを許された。重政は本に囲まれて育ったわけで、長じて浮世絵師になったのは、本人の絵心以外にこうした環境が影響していると推測される。既に10歳半ばには、暦の版下などを書いたという。その頃出版されていた紅摺絵は甚だ稚拙で、これくらいなら自分も描けると思ったのが絵師になる切っ掛けだったという。絵は師匠につかず独学で学んだ。しかし北尾の画姓は上方の浮世絵師北尾辰宣に由来し、本姓の北畠に読みが近いことも影響していると考えられる。辰宣は「自分の思いのまま、欲しいままに描く」という意味の「擅画」という語を用いたが、重政もこうした作画姿勢に共感したと思われる。浮世絵師になってからは大伝馬町三丁目扇屋井筒屋裏に住んでいたが、後に金杉中村の百姓惣兵衛地内に永住した。

重政は谷素外に師事して俳諧を学んでおり、花藍の号を受けたといわれ、プロの文字書きで師承は不明であるが書道に通じ三体篆書隷書をよくし、暦本の版下、祭礼や年中行事の際に掲げられる幟の文字などに有名書家たちに混じり揮毫、重政の書も大書されていたという。このような才能によって浮世絵を描き、一派の祖となった。宝暦末頃から西川祐信や鳥居清満風の紅摺絵の役者絵を描き、試行錯誤を重ねていった。明和2年(1765年)の摺物に花藍の号をもって参加、錦絵創製の有力絵師として活躍し始め、安永、天明の頃には画風が出来上がり、無款による美人画のほか、浮絵や草双紙の挿絵も多数描いた。一枚絵よりはむしろ版本における活躍が目立ち、手がけた絵本は60点を超え、黄表紙挿絵は100点以上あるといわれる。なかでも安永5年(1776年)に勝川春章と合作した絵本「青楼美人合姿鏡」は、実在の花魁をもとに吉原風俗を描いた代表作として良く知られている。他には同じく春章と合作した錦絵「かゐこやしない草」、洋風画の影響の見られる「写真花鳥図会」などが著名である。また、歌川豊春とも合作するなど、安永天明期の浮世絵黄金時代における一方の雄であった。天明期以降は専ら絵本や挿絵本の仕事を主とし、肉筆浮世絵も描いた。後年名が売れたあとも、次第に浮世絵の流派が定まっていく中で、若輩が担当することが多くなっていった版本挿絵の仕事を継続的にこなしているのは、重政の本好きを表しているといえる。肉筆では天明期の「摘み草図」(東京国立博物館所蔵)、天明5年(1785年)作画「美人戯猫図」(浮世絵太田記念美術館所蔵)などが挙げられるが、作品数は非常に少ない。享年82。墓所は台東区西浅草の善竜寺。法名は了巍居士。

重政は次の天明期に美人画において活躍する鳥居清長に影響を与え、若き頃の喜多川歌麿を弟子のようにその面倒を見ている。また教養のある重政のもとには北尾政演、北尾政美、窪俊満、式上亭柳郊のような文学的教養のある門人が集まった。大田南畝は『浮世絵類考』で「近年の名人なり。重政没してより浮世絵の風鄙しくなりたり」と高く評価している。 後の喜多川歌麿や葛飾北斎などにも影響を与えている。

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