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十返舎一九

十返舎 一九(じっぺんしゃ いっく、明和2年(1765年) - 天保2年8月7日(1831年9月12日))は、江戸時代後期の戯作者、絵師。『東海道中膝栗毛』の作者。

駿河国府中(駿府:現在の静岡市葵区)で町奉行の同心の子として生まれた。葵区両替町一丁目に、生誕の地の碑が建っている。本名は重田貞一(しげた さだかつ)、幼名は市九。通称に与七、幾五郎があった。酔翁、十返舎などと号す。

江戸に出て武家奉公をし、天明3年(1783年)(19歳)、大坂へ移り、大坂町奉行・小田切直年に勤仕したが、ほどなく浪人し、義太夫語りの家に寄食し、浄瑠璃作者となった、また、志野流の香道を学んだ。寛政元年(1789年)(25歳)、『近松与七』の名前で、浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』(このしたかげはざまがつせん)を合作した。

寛政6年(1794年)(30歳)、江戸へ戻り、通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)の版元・蔦屋重三郎方に寄食して、用紙の加工や挿絵描きなどを手伝った。寛政7年(1795年)、蔦屋に勧められて黄表紙『心学時計草』ほか2部を出版し、以降は生活のため、20年以上にわたり、毎年20部前後の新作を書き続けた。一九は文才にくわえ絵心があり、文章だけでなく挿絵も自分で描き、版下も書くという、版元に便利な作者であった。狂言、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、落語、川柳などに詳しく、狂歌を寛永期に修業し、それらを作品の素材にした。

一九は独学で、黄表紙のほか、洒落本、人情本、読本、合巻、狂歌集など、さらには教科書的な文例集まで書いた。筆耕・版下書き・挿絵描きなど、自作以外の出版の手伝いも続けた。寛政から文化期に自ら、「行列奴図」や、遣唐使の吉備真備を描いた「吉備大臣図」などの肉筆浮世絵を残している。

享和2年(1802年)に出した『東海道中膝栗毛』が大ヒットして、一躍流行作家となった。当時の生活について「最近ではいつも出版元から係の人がきて、机の横で原稿ができあがるのを待ってます」と、現代にも通じる作家生活を描写している。文政5年(1822年)までの21年間、次々と『膝栗毛』の続編を書き継ぎ、頻繁に取材旅行に出かけ、山東京伝、式亭三馬、曲亭馬琴、鈴木牧之らとも交わった。また並行して出した『方言修行 金草鞋』(むだしゅぎょうかねのわらじ)も広く読まれた。

一九は作品執筆による収入だけで生活した、日本初の職業作家ともいわれるが、当時は職業的著述業の成立を可能にする規模の市場が、日本に史上はじめて成立した時期だったのである。

文化7年(1810年)46歳のときに眼を病み、しばしば再発した。文政5年(1822年)58歳のときに中風を患い、その後は「名を貸しただけなのでは」と疑われる、一九らしくない作風の「著書」も混ざった。晩年を貧しく過ごしたのち、天保2年(1831年)8月7日、67歳で没した。辞世の句は「此世をば どりやおいとまに せん香と ともにつひには 灰左様なら 」。

浅草の東陽院に葬られた。『心月院一九日光信士』。墓碑は、東京都中央区勝どき四丁目に移転した同院に残る。

天保3年(1832年)、遺族・門弟らによって、長命寺に建てられた記念碑が、今も残る。また、静岡市葵区研屋町(とぎやちょう)の医王山顕光院には重田一族の墓が建ち、一九の戒名が刻まれている。

『』でくくった外題の前に、次の略号を用いる。黄:黄表紙、読:読本、洒:洒落本、稽:滑稽本、噺:噺本、合:合巻、情:人情本。なお、『東海道中膝栗毛』および『続膝栗毛』については、当該ページ参照。

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