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礒田湖龍斎

礒田 湖龍斎(いそだ こりゅうさい、享保20年〈1735年〉 - 寛政2年〈1790年〉?)とは、江戸時代中期の浮世絵師。鈴木春信亡き後の安永から天明期(1772-89年)に活躍し、特に柱絵を得意とした。

本姓藤原氏。姓は礒田、名は正勝。俗称庄兵衛。礒田湖龍斎と号した。神田小川町の旗本土屋家の浪人。この小川町の土屋家とは土浦藩主ということになり、「湖龍」の号は旧主の藩地、霞ヶ浦にちなんで選ばれたものかと推定される。両国橋広小路薬研堀に住居する。

西村重長の門人とされるが定かではない。明和年間後期にデビューし、初めは鈴木春広、あるいは湖龍斎春広と号した。鈴木春信の直接の門人ではないが、顕著にその影響を受けた絵師の一人であり、春信没後もその型からなかなか抜けきれなかった。しかし安永年間に入ると湖龍斎と改名し、極端に縦長な画面をもつ柱絵を描くうち、その影響から次第に抜け出していく。肉感を排した春信風の美人画から、現実の肉体を感じさせるたっぷりとした姿態をもたせた独自の画風を確立した。柱絵史上、湖龍斎はその縦長を画面を最も生かした作品を残しており出世作となった。柱絵以外にあぶな絵、秘画も多く残しており、黄表紙の作も見られる。安永5年(1776年)から天明初期に版行した「雛形若菜の初模様」の大判シリーズは代表作としてあげられる。このシリーズは吉原の遊女に新デザインの衣装を着せる趣向で、当時の女性の関心に応えるものだった。判型も春信画に特徴的だった中判ではなく大判を採用し、以後大判が錦絵の基本となった。現在確認されているだけでも120図を超え、人気シリーズとなり、後に鳥居清長が描き継いでいる。一方で湖龍斎はあぶな絵や花鳥画も多く、また安永10年(1781年)には『画本混雑倭草画』などの絵手本も残している。

天明2年(1782年)、絵師として名誉な地位である法橋に推免せられ、晩年は「武江薬研堀隠士」と自称して専ら肉筆浮世絵を描いた。肉筆美人画の代表作に「遊女道中図」、「美人愛猫図」などがある。浮世絵版画と肉筆画はともに、この時期の絵師では最も多く残されている。

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