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井上安治

井上 安治(いのうえ やすじ、文久4年/元治元年(1864年) - 明治22年(1889年)9月14日)は、明治時代前期の浮世絵師、版画家。名前はやすはると読むとする説もある。本名は安次郎。作品によっては安次、安二、安二郎、安はると署名し、探景とも号した。

小林清親の一番弟子とされ、短命であったが光線画に優品を残した。

井上清七の長男として浅草並木町(今の雷門二丁目)で生まる。父は川越鍛冶町(現・幸町)にあった高麗屋という錦織問屋(太物仲買商)に生まれたが、江戸に出て浅草駒形町にあった丸屋呉服店に勤め、のちに一番番頭となっている。兄弟は姉と弟がおり、13歳の時父が亡くなってからは母の手ひとつで育てられたようだ。

幼児より病弱で絵を好み、少年の頃、一時は月岡芳年に弟子入りしていた。しかし、明治11年(1878年)から12年(1879年)の冬頃、15歳の時に今度は小林清親に弟子入りする。安治にとって弟弟子にあたる土屋光逸の述懐によると、ある雪の日、清親が向島に出かけ、綾瀬川の土手の上から隅田川沿岸の雪景色をスケッチをしていると、安治はそれを二時間余りも見守り続け、その余りの熱心さに清親が話しかけたのが入門の切っ掛けになったという。また、清親の5子哥津は、安治は清親の画を見て、そのもっている心を慕って自ら弟子になったが、清親の門人というより友人であったと回想している。安治は清親についてよく写生に出かけ、後の「探景」の号はそうしたことから取られたとも言われる。

明治13年(1880年)頃、浅草並木町六番地に移っており、同年の6月、版元福田熊治郎から「浅草橋夕景」を、版元4代目松木平吉より「新吉原夜桜之景」「代官町之景」の3点の風景画を発表して版画家としてデビューする。作品欄外には清親の名が添えられており、清親が安治の才能を認め、後見人として少年絵師の前途を祝す意図があるものと考えられる。翌年「蛎殻町川辺の図」「富士見渡シ之景」「浅草橋雨中の景」「枕橋の図」「霊岸島高橋の景」(全て横大錦)などを、明治15年(1882年)に「銀座商店の夜景」といった作品を発表、清親が明治14年(1881年)以降光線画を描かなくなると、事実上これを引き継いでいる。明治10年代後半を中心に描かれたこの大判画の光線画シリーズ「東京名所絵」とも呼ばれ、現在16点確認されており、詩情を感じさせる優品が多い。また、同じ明治14年から最晩年にわたって葉書版の「東京名所絵」シリーズを刊行しており、清親の原図によるもの、その一部を変更したもの及び安治独自のものを合わせておよそ154枚に達している(後述)。

その後、明治17年(1884年)版元松木から受けた井上探景と画号を改め、光線画の他に、開化絵、風俗画、相撲絵、戯作の挿絵等も手掛けるようになる。明治18年(1885年)から翌年にかけては、清親や芳年などの人気絵師と伍して「教導立志基」のような教訓絵を多く描いた。同20年代に入ると版元が増え三枚組の仕事が多くなり、皇室関係や憲法発布を題材とした時事報道の時局絵を発表する。しかし、これらは安治の絵の特色である詩情が後退して、他の明治錦絵に近いものになり、絵自体もひ弱な印象を受け、光線画に比べると評価されていない。

生家を継ぐため実家の親戚印藤ますとの結婚が決まっていたが、明治22年(1889年)に脚気衝心のため26歳で死去した。法名は釈慈仁信士。墓所は、最初浅草の顕美院(所在地不明)にあったが、甥の代になって父の出身地川越に移され、現在は川越市末広町の行伝寺。残した作品数は「東京名所絵」を除くと、大錦判53種73点。清親はその早すぎる死を悼み、「つえ折れて ちからなき身や 萩の枝」という手向けの句を霊前に供えた。のちに清親の娘哥津は直接安治に会ったことはないが、父が安治を描いた肖像スケッチを見て「面影は、青白い、髪の毛の房々と、初年ふうに分けたのがよく似合ふ美しい若者だった」と追想している。

安治の人となりについては、余り記録に残っていない。鶯亭金升は自著『明治のおもかげ』収録の「六本指」で、「風景は天才で真面目に好く描いたが、他の絵は粗忽で笑われる事があった。人物の指を六本描いたり、正月の試筆に去年の干支を描いたりした。或年浅草で湯に入っていたら火事だと言われ、慌てて石鹸を顔一面に塗ったまま衣服を着て帰宅して笑われた事もあり、時々滑稽を演じた」と、その人柄を回想しつつ安治の早すぎる死を惜しんでいる。なお、杉浦日向子の漫画「YASUJI東京」は、安治の絵をモチーフとした作品である。

以下のサイトで安治の作品を見ることが出来る。

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