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勝川春章

勝川 春章(かつかわ しゅんしょう、享保11年〈1726年〉または寛保3年〈1743年〉 - 寛政4年12月4日または12月8日〈1793年1月15日または1月19日〉)とは、江戸時代中期を代表する浮世絵師。役者絵では役者個人の特徴を捉えた似顔絵風作画の先鞭をつけ、肉筆の美人画でも細密優美な作風で高い評価を得た。

本姓不詳、「藤原」とする説もあるが確かではない。諱は正輝、字は千尋。俗称は要助、安永3年(1774年)に春祐助と改む。画姓は初め宮川、または勝宮川、後に勝川、勝と称した。号は春章、旭朗井、李林、六々庵、縦画生、酉爾。江戸の人といわれるが、台東区蔵前の西福寺に伝わる過去帳には春章以前の父祖の名が記されていないので、春章の代で他所から江戸に来た可能性が指摘されている。ただし春章とは知己の高嵩月が記した『画師冠字類考』(岩瀬文庫蔵)には春章の略歴があり、それによれば春章の父は医者で葛西にいたという。

明和年間から没年までを作画期とする。絵を宮川春水に、また高嵩谷にも学び、英一蝶風の草画もよくしている。北尾重政とは家が向かいで親しく、その指導を受けたという(『古画備考』)。春章は立役や敵役の男性美を特色とし、容貌を役者によって差別化しない鳥居派の役者絵とは異なる写実的でブロマイド的な役者似顔絵を完成させ、大衆に支持された。そのはじめとなったのは、一筆斎文調との合作として明和7年(1770年)に刊行した『絵本舞台扇』である。その後文調と比較して、明快な色彩と、素直で誇張のない表現で、人気を博した。特に「東扇」(あずまおおぎ)の連作は、人気役者の似顔絵を扇に仕立てて身近に愛用するために、扇の形に線が入っており、大首絵の先駆的作品とされる。ほかに代表作として「かゐこやしない草」があげられる。

春章には勝川春好、勝川春英をはじめとして勝川春潮、勝川春林、勝川春童、勝川春常、勝川春泉、勝川春暁、勝川春朗(のちの葛飾北斎)など多くの弟子がいた。春章を祖とする勝川派は役者似顔絵を得意として隆盛したが、春章自身は天明後期には勝川派を代表する座を弟子の春好と春英に譲り、肉筆画に専念してゆく。特に細密な美人画は当時から称賛されていたようで、安永4年(1775年)六月序の洒落本『後編風俗通』に「春章一幅価千金」と讃えられた。この語句は従来「一幅」という語句から春章の肉筆美人画を讃えたものと解釈されているが、安永4年当時春章は未だほとんど肉筆美人画を制作しておらず、これは現在数点確認されている柱隠しの錦絵美人画のことを指すことは注意する必要がある。肉筆画の代表作としては美人画の「雪月花図」(MOA美術館所蔵)がある。肉筆画において優れた美人画を数多く残したのは、宮川長春、春水の影響であろうとされる。

人形町の地本問屋林屋七右衛門の家に寄寓し、同店の仕切り判を画印に使用したことから「壺屋」、「壺春章」ともいわれた。俳諧もたしなみ俳名を酉爾(または西示)、のちに宣富と称し、当時江戸で出された句集にいくつかの句を残している。また松平西福寺の過去帳によれば勝川春橋は孫に当たるが、春橋が実際に祖父である春章から絵を学んだのかどうかは不明である。

墓所は現在松平西福寺となっているが、もとは同寺内の子院である存心院にあり、明治になって存心院が退転したので移されたという。墓石には辞世として「枯ゆくや今ぞいふことよしあしも」の句を刻む。法名は勝誉春章信士。

なお春章の享年は一般には67歳とされているが、これは『名人忌辰録』(関根只誠著、1894年)でそのように記されたのが濫觴となっている。しかし春章の作品も含めた江戸時代の資料において、春章の享年について67歳であると記したものは一切見当たらず、関根只誠がいかなる資料や根拠によって67歳としたのかは不明である。生年の享保11年というのもこの67歳から逆算したものである。同志社大学教授の神谷勝広は上述の『画師冠字類考』に春章の享年が「年五十歳」と記されていることから、通説よりも17歳若返ると指摘している。また『画師冠字類考』では没年を「寛政四年十二月四日」としており、寛政4年12月8日とする過去帳や墓石とは日付に違いがあるが、「死亡日が『四日』で葬儀日が『八日』だったのかもしれない」と推測している。

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