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春川五七
春川五七
祇園神輿洗ねりもの姿 奴小万(やつここまん) 水口屋まさ次(じ)
春川五七
祇園神輿はらひ ねり物姿 叶(かのう)みんし役お蘭(らん) うぢ屋 三輪(みわ)の
春川五七
祇園神輿はらい ねりもの姿 里の飛脚 三升屋友賀
春川五七
祇園神輿祓 ねり物姿 先囃子(さきはやし) 松本屋(まつもとや) こま
春川五七
祇園神輿洗ねり物姿 三勝忍姿 <さんかつしのびすかた> ゐのうへや 小十栄(ことえい)
春川五七
祇園神輿はらひ ねり物姿 忠臣蔵(ちうしんくら)となせ 京いづつや 小ゑい
春川五七
花見遊女
春川五七
祇園神輿はらひ ねり物姿 宮本阿曽次郎 京いづゝや 今鶴
春川五七
祇園神輿洗 ねり物姿 於美輪(おみわ) 京井筒屋 小鶴
春川五七
祇園神輿はらい ねり物姿 奴小万(やつここまん) 水口屋 まさ次(じ)
春川 五七(はるかわ ごしち、安永5年〈1776年〉‐ 天保2年〈1831年〉)とは、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。
春川栄山の門人。姓は青木、通称は亀助。画名を春川五七といい、戯作名を神屋蓬洲といった。蓬莱亭、神屋蓬莱散人とも号す。江戸生まれか。御家人とも伝えられる。初め江戸小石川に住み、後に本郷弓町に移り住んで神屋蓬洲と称していた。文化末年頃には京都祇園下河原(『増補浮世絵類考』には「京都小原八坂の辺り」とあり、同じ場所を指すか)に移り、同地にて没した。
文化年間に自画作の戯作、滑稽本、読本などを多数手がけ、絵本の挿絵のほか錦絵の役者似顔絵、美人画や肉筆浮世絵の美人画などを描いた。また摺物も残している。作画期は文化年間から没年にまで至る。多才で狂歌や、彫刻の才にも長じており、自作の作品の板木も彫ったという。文化13年(1816年)頃に京都に移り住み、翌文化14年(1817年)から没年である天保2年までのあいだに数種の狂歌本、滑稽本、洒落本などに挿絵を描いた。著作として文化4年(1807年)刊行の自画作の滑稽本『口八丁』二冊、文化5年(1808年)刊行の滑稽本『竜孫戛玉』(たけのともずり)二巻1冊、文化9年(1812年)刊行の読本『天縁奇遇』三巻1冊、文化14年刊行の油断舎戻作の滑稽本『■(言+空)気譚』(うつけものがたり)一冊、文政5年(1822年)刊行の大極堂有長作の洒落本『箱枕』三巻3冊、天保3年(1832年)刊行の自画作の滑稽本『当見席眼鬘』(あててみるざしきめかずら)二編2冊などがあげられる。文政8年(1825年)刊行の狂歌本『伊楚の万都』(いそのまつ)一冊では自ら編集も行っている。なお刊行年は不明であるが、合巻『絵本千丈嶽』二冊は五七が執筆、門人の春川春泉が挿絵を描いている。享年56。天保3年刊行の滑稽本『当見席眼鬘』の序文に、五七が五七の歳を待たずに草稿半ばにして故人となった旨を記していることから、天保2年のうちに56歳で没したとされる。
門人に春川春泉、堀田春鳥、春川英笑、六輔などがいる。