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丸丈斎国広
丸丈斎国広
猿廻し小よし 中村三光(初代)
丸丈斎国広
白拍子 中村歌右衛門(三代目)
丸丈斎国広
大当たり新狂言つくし 左内 橘三郎(初代嵐橘三郎)、伝七 菊五郎(三代尾上菊五郎)、おやす 松江(三代目中村松江)、おくめ 小六(四代目嵐小六)、たく兵へ 歌右衛門(三代目中村歌右衛門)、重太郎 三津五良(三代目坂東三津五郎)、べん慶 鰕十郎(初代市川鰕十郎)、権八 半四郎(五代目岩井半四郎)、長兵へ 幸四郎(五代目松本幸四郎)
丸丈斎国広
小ゆき 松江改中村富十郎 岩城屋お見津 嵐璃寛(二代目) 狩野四郎次郎 中村歌右衛門(三代目)
丸丈斎国広
お乳人重の井 中村歌右衛門(三代目)、馬士三吉 坂東亀太郎(初代)
丸丈斎国広
おいわ怨霊 尾上梅幸 (三代目尾上菊五郎 )
丸丈斎国広
神田与五郎 中村歌右衛門(三代目)、寺岡平右衛門 市川鰕十郎(初代)
丸丈斎国広
八百屋長吉 中村歌右衛門(三代目)、道楽和尚里橋 浅尾国五郎(三代目)
丸丈斎国広
りやうし浪七 嵐璃寛(二代目)
丸丈斎国広
木おい 尾上多見蔵(二代目)
丸丈斎 国広(がんじょうさい くにひろ、生没年不詳)とは、江戸時代の大坂の浮世絵師。
大坂の人で戎橋一丁北に住む。滝川と歌川の画姓を称し丸丈斎、江南亭と号したが、作には「国広」とのみ落款したものが多数を占める。文化13年(1816年)の作に「丸丈改国広画」とあり、これ以前に丸丈と称したことが知られる。初代歌川豊国の門人とされているが、作に歌川派であることを示す歌川の画姓の使用例が少ないこと、画号が豊国の門人たちのものとは様式が異なることなどを以って、豊国の門人とする事を疑う向きもある。確認できる作画期は文化13年から天保12年(1841年)までの間にかけてで、役者絵を100点ほどと摺物を残す。なお天満屋国広とも呼ばれていたことから、当時の大坂の版元天満屋喜兵衛とは同一人物の可能性があるという。ただし国広には天満屋以外の版元から版行した絵もあり、もし同一人だとすれば、自身が経営する以外の版元から絵を出すことはあり得ないともいわれている。門人に国平がおり、他に国春、国晴も国広の門人とされる。