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歌川豊春
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古今勇士揃 金札図(=禁札ヵ)
歌川豊春
吉野 ケヌケノトウ
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八ヶ夕 八 忠臣蔵
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サカイ住吉明神之図
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待賢門夜討合戦図
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浮絵和国景跡(うきゑわこくのけいせき)風流和田酒盛之図
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本朝ごふく屋
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唐和景夕 三 最明寺
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唐和景夕 本朝
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八ヶ夕 七 吉原紋日
歌川 豊春(うたがわ とよはる、享保20年〈1735年〉 - 文化11年1月12日〈1814年3月3日〉)とは、江戸時代中期の浮世絵師。歌川派の祖。
姓は歌川。名は昌樹。俗称但馬屋庄次郎。後に新右衛門と改めている。芝宇田川町に住んでいたので、歌川と名乗ったといわれる。一龍斎、潜龍斎、松爾楼などと号す。出生地については、豊後国臼杵、但馬国豊岡、江戸の三つの説があり、未だに定説を見ない。幕末の浮世絵界において、独占的な一大勢力を形成した歌川派一門の祖にしては全く奇異である。しかし、近年、新しい資料が提示されて、臼杵藩で御用絵師を務めた3代目土師権十郎=豊春同人説が有力となりつつある。江戸では芝三島町、大阪町、田所町、中橋、檜物町、赤坂田町などに居住した。
豊春の師系に関しても、初め、京都に上って狩野派の鶴沢探鯨に学び、さらに宝暦の頃、江戸へ出て鳥山石燕に師事したとされるが、この説の典拠は定かでなく、未詳である。この他に西村重長、あるいは石川豊信の門人であったと記録するものもあるが、これらの説も出典は不明なため、豊春の出自を含めた習画時期の動静については、全く模糊としている。近年はこの中でも鳥山石燕説が有力である。
作画期は、明和5年(1768年)頃に2世沢村宗十郎の錦絵を描いたことから始まるとされており、没年に至る。長い作画期間の割には作画量は少なく、これは富裕な女性へ入婿したため、絵で生計を立てる必要がなかったからと推測される。豊春は版画において役者絵、美人画などを描いているが、豊春の業績として特筆すべきは、浮絵の開発進歩、普及に多大な貢献をしたことがあげられる。浮絵の総数は把握されていないが、延享(1744年 - 1748年)期の奥村政信に次ぐ名手であり、多作であった。奥村政信が「浮絵根元」と称して描いた浮絵は、西村重長に受け継がれたが、同じ画面内での室内描写のみに遠近法を使用し、屋外の風景は従来の俯瞰描写をするといった不完全なものであった。そこで中国系の眼鏡絵や西洋の銅版画を浮世絵に模写して研究を重ねた結果、豊春は正しい遠近法を習得し、早いものでは明和8、9年(1771年 - 1772年)頃から浮絵を描き始め、これをもって江戸の風景を描いたのである。これにより浮絵は近景から遠景を眺望する風景画へと転換し、後の葛飾北斎、歌川広重らの風景版画を準備することになった。
天明期以降は版画制作からほぼ離れ、肉筆浮世絵に専心する。大半が絹本極彩色の美人画で、同じ時期の浮世絵師のなかでは作品数も多い。どの作品もとても落ち着いており、温厚な彼の人柄を示している。それが彼を歌川派の始祖たらしめたものと考えられる。更に、従来の鳥居派の絵師に代わって天明6年(1786年)11月、桐座の顔見世番付と寛政10年(1798年)11月、中村座の顔見世番付を描いた。この時の落款は「絵師歌川新右衛門筆」である。文化14年刊行の合巻『艶容歌妓結』は豊春が操芝居の看板絵を描いたことを伝え、また、『増補浮世絵類考』は寛政頃、日光山修復の職人頭を泉守一らとともに勤めたことを伝える。代表作として大々判の「琴棋書画」シリーズが挙げられる。
享年80。墓所はかつては浅草菊屋橋際の本立寺(法華宗)にあったが、現在は豊島区南池袋の本教寺に移転している。法名は歌川院豊春日要信士。文化11年(1814年)春、墨田区押上の春慶寺に豊春を顕彰する碑が建立された。これには歌川昌樹、歌川妙歌、二代目歌川豊春、歌川貢、大野規行、歌川豊秀、歌川豊国、歌川豊広の名が刻まれていたが、この碑は後に関東大震災によって失われている。
豊春の門人には、初代歌川豊国、二代目歌川豊春、歌川豊広、歌川豊久、歌川豊丸、歌川豊秀、酒井抱一らがいるが、そのなかでも初代歌川豊国、歌川豊広という双璧とされる門人がおり、さらに両門下から秀抜した浮世絵師たちが多数輩出、葛飾派の活躍が終息した以後の浮世絵界を独占する一大勢力を築くことになった。
その道統は豊春 - 初代豊国 - 国芳 - 月岡芳年 - 水野年方 - 鏑木清方 - 伊東深水という系譜で、現代の日本画壇にも受け継がれている。また、鏑木清方の弟子であった川瀬巴水と伊東深水は、新版画運動を支えた絵師でもある。
豊春は妻との間に2男1女をもうけたが、妻も3人の子女ともに豊春よりも先立って没している。