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歌川国鶴
歌川国鶴
江戸の花 一流曲独楽 東都上野御山下 太夫元 竹澤藤次 金毛九尾・三国渡 二月上旬より西両国広小路において
歌川国鶴
貝細工 當ル午ノ三月上旬より浅草観世音境内におゐて興行仕候 貝細工人 岩熊萬靏・花柳軒/人形細工人 浮面舎鉄五郎
歌川国鶴
江戸の花 一流曲独楽 東都上野御山下 太夫元竹澤藤次 金毛 九尾 三国渡 二月上旬より西両国広小路において
歌川国鶴
鯨細工 當子三月より浅草観世音御境内ニおゐて興行仕候 口上あらこ 乍憚口上(六行) 浪花細工人大江忠兵衛・東都細工人大江和助 道具細工人長谷川平吉・竹田由三郎 太夫元大坂亀屋福松
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大阪下り 百面相(ひゃくめんさう)
歌川国鶴
鉄割弥吉 嘉永五年歳子正月二日ヨリ 鉄割音吉 (曲持)
歌川国鶴
生人形
歌川国鶴
富士山諸人参詣之図
歌川国鶴
當ル三月上旬より深川八幡宮境内におゐて興行仕候 神儒佛 乍憚以口上書奉申上候 人形細工人大坂大江忠兵衛・大道具細工人同七草喜三郎・太夫元江戸細工人和泉屋伊之助 万歳楽大金蔵入
歌川国鶴
抱真細工(口上文)細工人浪花松壽軒・人形竹田縫之助 當ル五月下旬ヨリ両国回向院境内ニおゐて興行 口上あらこ
歌川 国鶴(うたがわ くにつる、文化4年〈1807年〉 - 明治11年〈1878年〉3月19日)とは、江戸時代後期から明治時代初期にかけての浮世絵師。
国鶴は、二代目歌川豊国の甥で四代目歌川豊国と呼ばれるもう一人の人物。香蝶楼、一陽斎を名乗った四代目歌川豊国とは別人。
二代目歌川豊国の門人で、その甥。
本姓は和田、名は安五郎。歌川の画姓を称し一寿斎、一雄斎と号し、二代目豊重とも称す。江戸築地に生まれたが、天保8年(1837年)以降大坂に住む。安政2年(1855年)ごろ江戸に帰り、浅草花川戸の戸沢長屋に住んだ。この頃新門辰五郎の知遇を得る。安政2年の大地震に遭遇、後に下谷広徳寺横町に移る。さらに安政6年(1859年)以降は横浜に移住し、横浜絵を描いている。はじめ本村(現在の元町)、後に馬車道に住む。横浜火災の後、埋立地の翁町に移り、さらに横浜吉田町で明治10年(1877年)に絵草紙屋を開業しその地で没した。享年72。墓所は港区芝の増上寺内常行院。
作画期は天保の頃から没年までで、作には横浜絵や絵草紙の挿絵、役者絵、他に刺子襦袢の下絵、奉納扁額絵、地口行灯絵、刺青の下絵、肉筆浮世絵なども描いた。ホワイトハウスヒストリカル協会には、1879年(明治12年)6月に来日したグラント元大統領が持ち帰った国鶴の作品6点が所蔵されている。