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鳥橋斎栄里
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扇の的を射る那須与一
鳥橋斎栄里
江戸花京橋名取 山東京伝
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郭中美人 丸屋 九重
鳥橋斎栄里
貴公子の訪問
鳥橋斎栄里
七五三の宮参り、御帯解きの儀
鳥橋斎栄里
七五三の宮参り、御袴着の儀
鳥橋斎栄里
貴公子の訪問
鳥橋斎栄里
近江八景 石山秋月 丁子屋内 雛鶴 つるし つるの
鳥橋斎栄里
見立登城行列
鳥橋斎栄里
貴公子の訪問
鳥橋斎 栄里(ちょうきょうさい えいり、宝暦9年〈1759年〉 - 没年不詳)とは、江戸時代中期の浮世絵師、御家人。
鳥文斎栄之の門人。栄之門人の中では鳥高斎栄昌に次ぐ高弟である。姓は宇田川、名は忠春。通称は鉄蔵、五左衛門。鳥橋斎栄里、鳲鳩斎(しきゅうさい)栄里、勿用斎永犂、武川亭永艃、礫川亭永理、礫川亭永犂、礫川亭ヱひり、礫川亭一指、小石一指、小石堂一指と号す。『諸家人名江戸方角分』の小石川の部に、「永理 礫川 又一指ト改 丸田橋 宇田川五左ヱ門」とあるので、この「永理」と栄里(一指)は同一人とされる。
宝暦9年(1759年)、幡野一郎兵衛春郷の三男として小石川に生まれ、安永3年(1774年)に宇田川左京忠繁の養子となって宇田川家の家督を継いだ。家禄は蔵米150俵で、栄之と同じ小普請溝口十番組に属していた。
初作は天明8年(1788年)の洒落本『青楼五雁金』の挿絵で、この時の落款は「永理」である。並行して「栄里」と称し、寛政8年(1796年)頃まで錦絵22点と、肉筆美人画などを描いた。栄里期の錦絵では、同門の鳥高斎栄昌、栄烏と共作した「郭中美人競」が著名で、越前屋唐土、鶴屋かしく、丸屋九重の3点を栄里が描いた。他に「二代目富本豊前掾」と「山東京伝」の肖像画は、背景に黒雲母摺りを使用し、東洲斎写楽ほど個性的な描写ではないが、人物の風格をよく把握した作品で、栄里の名前を忘れえぬ物にしたといえるほどの傑作にあげられる。
他に美人画では、「三ケ之津草嫁美人合」や「青楼美人斉富」などを描いている。また栄里時代の肉筆画「美人図」は足元に置かれた三味線によって、この立ち美人が芸妓であることがわかる。着物は白地に桜花が胡粉で盛り上げて描かれている。栄之風の長身美人であるが、顔を横に向けて細い首を見せないため、安定した姿を示している。その後、錦絵「大もんじや内多が袖」に、礫川亭永犂画と落款している。この作品に描かれた人物は、顔立ちがやや頬のこけた感じが見受けられる。また、同じく礫川亭永犂画の落款のある肉筆画「桜下遊女図」に描かれた遊女は、ふっくらとした顔立ちをしており、衣服のひだの表現には金泥線を使い丁寧に描かれているため、錦絵よりも以前の作品であるといえる。さらに、肉筆画「見立琴高仙人図」に、礫川亭永艃冩と款しており、画風にも栄之の影響が見られ、栄里落款の美人画に酷似している。
その後、文化元年(1804年)に作画をした十返舎一九の黄表紙『風薫婦仇討』の挿絵や、文化4年(1807年)に絵入狂歌本『狂歌蓬莱集』などには「永艃」と款しており、「永艃」の落款で錦絵、肉筆画、黄表紙の挿絵などを手がけた。さらに一指と称して以降は、肉筆画のみを描いている。