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鳥文斎栄之
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大傘下の踊り
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風流略六哥仙 其二 大伴黒主
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大川端の料亭
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風流七小町 あふむ
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略三十六歌仙 高光
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風流やつし源氏 藤裏葉
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若那初衣装 竹屋哥巻 ふたは みとり
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吉野丸船遊び
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名所盃合 金龍山
鳥文斎栄之
筒井筒
鳥文斎 栄之(ちょうぶんさい えいし、宝暦6年〈1756年〉 - 文政12年7月2日〈1829年8月1日〉)とは、江戸時代後期の浮世絵師、旗本。寛政から文化文政期にかけて活躍した。
文龍斎(閲歴不明)の門人。姓は細田、名は時富。俗称は民之丞、後に弥三郎。鳥文斎と号す。治部卿とも称した。肉筆画に、華暎、独有の印が見られる。栄之は後に従六位に叙せられている。江戸本所割下水(現・墨田区亀沢)に拝領地を有し、初め浜町に住み、後に本所御竹蔵の後方に移ったという。父は細田時行、母は境野氏の出とされるが、妾腹ではないかともいわれている。細田家は500石取りの直参旗本で、栄之の祖父時敏は勘定奉行を務めている。
栄之自身は時行の長男として生まれ、安永元年(1772年)9月6日に17歳で家督を継いでいる。絵は初め狩野典信に学び、師の号「栄川院」より「栄」の一字を譲り受け栄之と号した。後に浮世絵に転じたため、師の栄川院より破門を言い渡されたが、栄之の号だけは永く使用していた。その後諸役を務め、天明元年(1781年)4月21日から天明3年(1783年)2月7日まで西の丸にて将軍徳川家治の小納戸役に列し絵の具方を務め、家治が絵を好んだので御意に叶い、日々お傍に侍して御絵のとも役を承っていた。天明元年(1781年)12月16日には布衣を着すことを許可されている。上意によって栄之と号し奉公に励んだが、天明3年(1783年)12月18日辞して無職の寄合衆に入っている。天明6年(1786年)には将軍家治が死去、その三年後の栄之34歳の時、寛政元年(1789年)8月5日には病気と称して致仕、隠居した。しかしこれは将軍が病死であったことにより、憚ってのこととであるとされる。そして妹を養女として迎え、これに和三郎を婿入りさせて時豊と名乗らせ家督を譲った。
栄之は狩野典信に師事した後に文竜斎に師事し、すでに天明(1781年 - 1789年)後期頃から浮世絵師として活動を始めており、初作は天明5年(1785年)刊行の黄表紙『其由来光徳寺門』の挿絵である。初期の作品は、天明期の美人画界の巨匠・鳥居清長の影響が強く、清長風の美人画などを描いている。寛政元年に家督を譲った後は本格的な作画活動に専心し、寛政(1789年 - 1801年)期には栄之独自の静穏な美人画の画風を打ち立てた。特に女性の全身像に独自の様式を確立、十二頭身と表現される体躯の柔らかな錦絵美人画を寛政後期まで多数制作している。栄之の描線は細やかで優美、その女性像は背丈のスラッとした優雅なもので、当時ライバルだった喜多川歌麿作品に見られる色っぽさや淫奔さとは、はっきりと一線を画したものであった。栄之は遊里に生きる女性を理想像に昇華し、清長よりもほっそりとして、歌麿のような艶麗さがなく、容貌は物静かといった栄之独自のスタイルを確立している。また『源氏物語』などの古典の題材を当世風に描いた3枚続「風流略(やつし)源氏」のように、彩色は墨、淡墨、藍、紫、黄、緑といった渋い色のみを用いた「紅嫌い」と呼ばれるあっさりとした地味なもので、それでいて暖かみを感じさせる独特の雅趣のある表現を好んでいた。この「紅嫌い」の創案者は栄之であるといわれる。栄之はこの作風をもって一枚絵で歌麿とその人気を競った。中判や柱絵にも優れた作品があるが、錦絵の代表作ではシリーズ物の「風流略(やつし)六哥仙」、「風流名所十景」、「青楼美撰合」、「青楼芸者撰」、「青楼美人六花仙」などがあげられる。なかでも「青楼美人六花仙」のシリーズは黄潰しの背景に花魁の座像を気品高く描いており、栄之ならではの傑作とされている。反対に歌麿が得意とした美人大首絵は全く手掛けておらず、あくまで全身像にこだわる栄之の姿勢が窺える。栄之は細田氏であったが画姓としてはこれを用いず、別に細井氏を名乗っているものがあり、その一例として寛政13年(1801年)、葛飾北斎と共作した西村屋版の豪華な色摺り絵本『新版錦摺女三十六歌僊絵尽』に「細井鳥文斎筆」とあるのをあげられる。これも家柄を憚ってのことと思われる。
栄之は寛政10年(1798年)頃には錦絵の一枚絵の制作を止める。江戸期の記録には「故在りてしばらく筆を止む」「故障ありて錦絵を止む」などの記述が見られ、版画作品の発表を取りやめざるを得ない事情があったことが想定できる。享和(1801年 - 1804年)・文化(1804年 - 1818年)期にかけてはもっぱら肉筆の美人風俗画を手がけており、気品のある清雅な画風で人気を得た。江戸時代は、木版画の下絵を手懸ける者「画工」より、肉筆画専門の「本絵師」のほうが格上と見られており、栄之の転身も彼の出自と、当時の身分意識が影響していたとみられる。
寛政12年(1800年)閏4月、妙法院宮真仁法親王(門跡)が江戸に下向した折、将軍が栄之に命じて評判の隅田川の図(おそらくは肉筆による絵巻物)を描かせるということがあった。京に帰った妙法院宮は、それを絵を好んだ後桜町上皇に江戸土産としたところ、上皇は殊のほかお喜びになり、ついには仙洞の御文庫に納められたという。これを伝え聞き名誉に感じた栄之は、「天覧」と刻んだ印章を作り、記念としたのであった。ついに浮世絵が帝の叡覧に供せられるという誉れに浴した瞬間であった。評判となったこの一事によって栄之の画名を高めるとともに、以降自作に対し大いに矜持を抱いたといわれる。さらにこのことが当時広く知られるようになったため、隅田川を描いたそれと同趣向の作品の揮毫を各方面から次々と求められたとみられ、同様の「吉原通い図巻」がおよそ21点ほど確認されている。
その後は栄之は没年まで優れた肉筆画を描いており、学んだ絵の骨格がしっかりしているので晩年の肉筆画にも佳作が多く、ただ美人画のみではなく風景画にも優れた作品が残されており、特に隅田川の風景を好んで描いている。ただし、絹本の作例には同じ下絵を使い回した同工異曲の作品も多く、弟子たちを動員して工房的な量産体制があったことが類推できる。その一方で、極めて稀だが肉筆画の落款に、「治部卿栄之藤原時富筆」と位や肩書きをつけて署名することがあり、これらは名だたる大名からの需めに応じて描いたものであると思われる。「遊女立姿図」(東京国立博物館所蔵)や「美人図」(大和文華館所蔵)などに「治部卿栄之藤原時富筆」という落款がされている。
後に栄里、栄昌、栄深、栄水、栄文、栄鱗、栄晁、栄綾、栄京、栄意、栄雅、栄舟、栄隆、栄波、栄山、栄尚、蕉鹿、五郷など多くの優秀な門人を輩出している。文政12年(1829年)、74歳で死去した。 墓所は台東区谷中の蓮華寺。既に合祀墓に移されていて墓石は存在しない。法名は広説院殿皆信栄之日随居士。