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窪俊満
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赤本つくし 舌切雀
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赤本つくし 舌切雀
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美人見立て七賢人
窪俊満
中洲の四季庵の酒宴
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鏡に映る化粧美人
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群蝶画譜
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籬連おさな源氏十二番之内 絵合
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百さえつり 船乗そめ
窪俊満
鏡に映る唐美人
窪俊満
俳諧席の戻り (塀の内外)
窪 俊満(くぼ しゅんまん、宝暦7年〈1757年〉 - 文政3年9月20日〈1820年10月26日〉)とは、江戸時代の浮世絵師、戯作者、歌人。北尾重政の門人で、同門の北尾政演(山東京伝)、北尾政美(鍬形蕙斎)と並び、代表的な弟子である。
姓は窪田または窪。通称易兵衛または安兵衛。画号を窪俊満と称した。他に尚左堂(これは俊満が左利きであったことによる号)とも号す。戯作号は南陀伽紫蘭、黄山堂、狂歌号・一節千杖、俳号・塩辛坊。宝暦7年に江戸に生まれる。幼いとき父親を失い、伯父によって養われた。小伝馬町、亀井町、神田富松町などに居住した。初めは楫取魚彦に学び、春満と称した。安永末頃に北尾重政門に入って北尾を称す。天明2年(1782年)に楫取が亡くなると、画名を俊満と改めた。
作画期は安永中葉から文化末年までに及ぶ。安永8年、北川豊章(歌麿)作画の黄表紙『通鳧寝子の美女』(かよいけりねこのわざくれ)を黄山堂の名で発表したのが初作であった。それ以降黄表紙10部、洒落本3部を描いた。画風は師の重政風というよりは鳥居清長風の美人画を描いており、俊満の地味な美人画は清長や歌麿の台頭にあって目立たずに美人画の作品は少なく、むしろ肉筆美人画が多くみられる。また紅嫌いの作品が良く知られている。俊満の紅嫌いは錦絵のほか、肉筆浮世絵にもみられる。特に狂歌摺物を得意とし、その点数は500点に及ぶという。
寛政以後、石川雅望に狂歌を学んで判者になっており、文学にも親しみ、狂歌摺物や版本の作画に活躍したほか沈金彫りや貝細工などにも長じた多芸な人であった。享年64。墓所は台東区蔵前の榧寺(旧名・正覚寺)、法名は善誉尚左俊満居士。墨田区東向島の法泉寺境内には、窪俊満の歌碑が残る。