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小林永濯
小林永濯
中古名家画帖 北斎遺畫ノ部(富岳百景の複製)より 遠江山中の不二
小林永濯
各種新聞図解の内 東京日日新聞 第七百四十八号
小林永濯
中古名家画帖 北斎遺畫ノ部(富岳百景の複製)より 写真中の不二
小林永濯
アイヌ風俗図
小林永濯
各種新聞図解の内 郵便報知新聞 第五百号
小林永濯
義経と弁慶に蝦夷
小林永濯
中古名家画帖 北斎遺畫ノ部(富岳百景の複製)より 木枯の不二
小林永濯
各種新聞図解の内 郵便報知新聞 第三百四十七号
小林永濯
万物雛形画譜 袋
小林永濯
各種新聞図解の内 東京日日新聞 第四百九拾八号
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小林 永濯(こばやし えいたく、天保14年3月23日〈1843年4月22日〉 - 明治23年〈1890年〉5月27日)とは、江戸時代から明治時代にかけての浮世絵師、日本画家。画号は鮮斎(せんさい)永濯。
狩野永悳(えいとく)の門人。名は徳直または徳宣。俗称は秀次郎。鮮斎永濯の他に永躍、永瑞、霞堂、永洲、夢魚、梅花堂と号す。
日本橋魚河岸新場の魚問屋、三浦屋吉三郎の子として生まれた。生まれつき病弱で潔癖性なため魚に触れたがらず、独り絵筆に親しんだという。安政2年(1855年)13歳の時、中橋狩野家の狩野永悳に就いて狩野派の絵を学んで認められ、徳宣の名と、永濯または永瑞の号を与えられる。18歳の時、近江国(現・滋賀県)彦根藩井伊家のお抱え絵師石井永珉の養子となる話がきたが、桜田門外の変により流れてしまう。次いで一時期は同門で、姫路藩の御用絵師でもあった狩野永洲の養子となり、この時に永洲と号したともいわれている。元治元年(1864年)に官を退き、日本橋通町に画室を構える。この頃、百鬼夜行の錦絵版下を描いたため、浮世絵と関わるのを禁止していた狩野派の中で問題となり、明治3年(1870年)頃から浮世絵に転向する。このとき永濯は河鍋暁斎と親交があり、暁斎が永濯をかばって面倒を見たといわれる。飯島虚心によると、永濯は暁斎の数少ない画友の一人で、常に画法を論じ合っていたという。他にも永濯は礼節を重んじる温和な性格の故か、当時多くの絵師と交流があったとされる。明治5年(1872年)には月岡芳年とともに甲府へ旅行をしている。
明治7年(1874年)の『耶蘇一代弁妄記』挿絵を初めとして、同年『義烈回天百首』、翌8年『近代報国百人一首』など挿絵の制作が活発化している事から、絵師としての地位も確立されたことが推定できる。明治9年(1876年)、永濯が両国中村楼で書画会を開いた際の新聞記事には「浮世絵では東京一の大先生の会だけに賑やか」だったと記されている。また、この書画会では、高橋由一、横山松三郎、守住勇魚、チャールズ・ワーグマンらの作品も展示しており、永濯が洋画家たちとも交流していたのが分かる。明治10年(1877年)には、導入されたばかりの学制に対応した指導方法を解説する『小学入門教授図解』挿絵も手掛けた。
続けて西南戦争(1877年)の戦争絵、新聞の挿絵のほか、明治17年(1884年)に刊行した『鮮斎永濯画譜』、明治18年(1885年)から明治23年(1890年)に刊行した『永濯漫画』初編・2編のほか『万物雛形画譜』『近世紀聞』『明治太平記』などの絵本の他、狂画、肉筆画を手がけた。明治10年(1877年)の第1回内国勧業博覧会に『天照大神、素戔嗚尊、問答』と『神武天皇命鳥ノ図』を出品して花紋賞を受賞。更に明治18年(1885年)鑑画会第一回大会に『僧祐天夢に不動を見る図』で一等賞を受賞する。また、明治20年(1887年)には、新吉原灯籠の会において、月岡芳年と一緒に灯籠に歴史画を描いている。1889年(明治22年)に創刊された日本初のグラフィック雑誌風俗画報において、健筆をふるっていた。
永濯の絵は狩野派で本格的に修行しただけあって、正統的な技量の持ち主である。しかし永濯は狩野派の粉本主義に飽き足らず、明画の筆意を会得し、陰影などの西洋の写実を取り入れ、写真を利用するなど新鮮味を出すことを心がけた。和漢と西洋の技法が一体となった永濯の作品は、他の浮世絵と異なり丁寧で上品な気分が漂う。明治23年持病の肺病により向島小梅村の寓居で没す。享年48。墓所は、世田谷区松原の正法寺。法名は大行院徳宣釈永秀居士。
門人に養子となった小林永興の他、富岡永洗、村田永挙らがいる。明治35年(1902年)、永濯十三回忌に亀戸天神境内に「鮮斎永濯碑銘」が建てられた。永濯の作品は在日欧米人から評価が高く、永濯の作品は現在確認されている以外にも、海外に多数存在すると言われている。