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葛飾 北斎(かつしか ほくさい、葛飾 北齋、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)は、江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。
代表作に『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも彼の卓越した描写力を見ることができる。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えている。シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなり、難を逃れている。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。1999年には、アメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした。門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれる。
彼は生涯に30回と頻繁に改号していた。使用した号は「勝川春朗」「群馬亭」「北斎」「俵屋宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」などと、それらの組み合わせである。北斎研究家の安田剛蔵は、北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号で、数は多いが改名には当たらないとしている。仮にこの説が正しいとしても、主な号を5度も変えているのはやはり多いと言えるだろう。
現在広く知られる「北斎」は、当初名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは北極星および北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰 (柳嶋法性寺)にちなんでいる。他に比してこの名が通用しているのは「北斎改め為一」あるいは「北斎改め戴斗」などというかたちで使われていたことによる。なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたため、とする説 や、北斎の自己韜晦(とうかい)癖が影響しているとする説 もある。ちなみに、「北斎」の号さえ弟子の鈴木某、あるいは橋本庄兵衛に譲っている。
北斎は、93回に上るとされる転居の多さもまた有名である。一日に3回引っ越したこともあるという。75歳の時には既に56回に達していたらしい。当時の人名録『広益諸家人名録』の付録では天保7・13年版ともに「居所不定」と記されており、これは住所を欠いた一名を除くと473名中北斎ただ一人である。北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父のもとに出戻った娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからである。また、北斎は生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物に倣い、自分も百回引っ越してから死にたいと言ったという説もある。ただし、北斎の93回は極端にしても江戸の庶民は頻繁に引越したらしく、鏑木清方は『紫陽花舎随筆』において、自分の母を例に出し自分も30回以上引越したと、東京人の引越し好きを回想している。なお、明治の浮世絵師豊原国周は、北斎に対抗して生涯117回引越しをした。
最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことである。
浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍した。黄表紙や洒落本・読本など数多くの戯作の挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していた。数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『近世怪談霜夜之星』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとした。読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物と言われている。なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候(いそうろう)していたことがある。
嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた。そのときの様子は次のように伝えられている。
すなわち「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天が私の命をあと10年伸ばしてくれたら』と言い、しばらくしてさらに言うことには『天が私の命をあと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう』と言吃って死んだ」。
辞世の句は、
「人魂になって夏の野原にでも気晴らしに出かけようか」というものであった。
葛飾北斎は生涯に2度結婚しており、それぞれの妻との間に一男二女を設けている(合わせると二男四女)。
料理は買ってきたり、もらったりして自分では作らなかった。居酒屋のとなりに住んだときは、3食とも店から出前させていた。だから家に食器一つなく、器に移し替えることもない。包装の竹皮や箱に入れたまま食べては、ゴミをそのまま放置した。土瓶と茶碗2、3はもっていたが、自分で茶を入れない。一般に入れるべきとされた、女性である娘のお栄(葛飾応為)も入れない。客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した。
ここまで乱れた生活を送りながらも彼が長命だった理由として、彼がクワイを毎日食べていたから、と言う説がある。
斎藤月岑によれば、この親子(北斎とお栄)は生魚をもらうと調理が面倒なため他者にあげてしまう、という。
北斎は酒を飲まなかった。これを否定する意見として、「通常の名家、文人墨客で飲まないところはない。また大手の画家であり画工料は多い。にもかかわらず乱れた生活、不衛生な部屋、汚れた衣服を着ている、引っ越しが多いというのは往々にして酒飲みの典型である」というものがある。しかし、明治に行われた周辺へのインタビューでは下戸であったというものばかりである。河鍋暁斎によれば「酒を飲まないばかりか、お茶でも上等の茶は嗜まないし、煙草も吸わない。殊に煙が嫌いで夏に蚊遣りも使わない」。別の証言では「酒は飲まないが、菓子を嗜む。訪問するとき大福餅7、8を持って行くと、大喜びし舌鼓を打った。」という。 交流のあった柳亭種彦は「酒は嗜まないが茶を嗜む」という文を残している。
北斎は金銭に無頓着であった。北斎の画工料は金一分と通常の倍を得ていたが、赤貧で衣服にも不自由する。しかし金を貯える気は見られない。画工料が送られてきても包みを解かず、数えもせず机に放置しておく。米屋、薪屋が請求にくると包みのまま投げつけて渡した。店は意外な金額なら着服するし、少なければ催促するという形であった。このようないいかげんな金銭の扱いが貧しさの一因であろう。
北斎は、行儀作法を好まなかった。たいへんそっけない返事や態度をとる人物であった。人に会っても一礼もしたことがなく、ただ「こんにちは」「いや」とだけこたえ、一般的な時候・健康について長話をしなかった。
衣服は絹類や流行の服を着たことがない。雑な手織りの紺縞の木綿、柿色の袖無し半天。六尺の天秤棒を杖にして、わらじか麻裏の草履をはく。誰かから「田舎者だ」と言われるのを、ひそかに喜んでいた。また、歩くときに常に呪文を唱えているので、知人に会っても気がつかないことがあった。
ある日は、北斎が部屋の隅を筆で指し、娘を呼んで「昨日の晩までここに蜘蛛の巣があっただろう。どうして消えたんだ。お前知らないか?」としばらく気にし続けていたことがあった。
また訪問した人の証言では「北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた」という。
晩年の北斎が弟子露木為一に語っている。「9月下旬から4月上旬まではこたつにはいり続け、どんな人が訪れようとも画を書くときも、こたつを出ることはなく、疲れたら横の枕で寝るし目覚めたら画を描き続ける。昼夜これを続けた。夜着の袖は無駄だから着ない。こたつに入りつづけると炭火はのぼせるから炭団を使う。布団にはしらみが大発生した」(下図中の文章とほぼ同内容)
北斎仮宅之図(露木為一 国立国会図書館所蔵) 弟子が北斎仮宅之図に北斎の様子と、室内の状況を描いている。 晩年の北斎が、こたつの布団をかぶりながら畳の上に紙を敷いて絵を描いている。不敵な顔をした娘のお栄が、箱火鉢に添いながらその様子をながめている。 杉戸には「画帳扇面おことわり」と張り紙をしている。柱にはミカン箱を打ち付けて仏壇としている。はきちらかした草履と下駄。火鉢のうしろが炭と食品容器であったかごや竹皮のごみの山である。
「火事は江戸の名物」といわれるほど江戸は火事が多かったが、北斎は何十回と引っ越しを繰り返しながら、転居56回、75歳になるまで奇跡的に火災に遭わなかった。これが自慢で鎮火の御札を描いて人に渡したりしていた。
75歳でとうとう火災に遭い、もともと乏しかった家財も失い浮浪者の様になってしまった。若い頃から描き貯めた資料も焼失し、大変がっかりしてもう集めなくなった。火災直後は道具が無い間、徳利を割って底を筆洗いに、破片をパレットにして画を描いていたこともあった。
この火災のとき、仕事中の北斎は筆を握ったまま飛び出し、娘お為も飛び出して逃げた。後から思うと家財を運び出す余裕はあったが、その時はあわてていて気が回らなかった。
長崎商館長(カピタン)が江戸参府の際(1826年)、北斎に日本人男女の一生を描いた絵、2巻を150金で依頼した。そして随行の医師シーボルトも同じ2巻150金で依頼した。北斎は承諾し数日間で仕上げ彼らの旅館に納めに行った。商館長は契約通り150金を支払い受け取ったが、シーボルトの方は「商館長と違って薄給であり、同じようには謝礼できない。半値75金でどうか」と渋った。北斎は「なぜ最初に言わないのか。同じ絵でも彩色を変えて75金でも仕上げられた。」とすこし憤った。シーボルトは「それならば1巻を買う」というと、通常の絵師ならそれで納めるところだが、激貧にもかかわらず北斎は憤慨して2巻とも持ち帰ってきた。当時一緒に暮らしていた妻も、「丹精込めてお描きでしょうが、このモチーフの絵ではよそでは売れない。損とわかっても売らなければ、また貧苦を重ねるのは当たり前ではないか。」と諌めた。北斎はじっとしばらく黙っていたが「自分も困窮するのはわかっている。そうすれば自分の損失は軽くなるだろう。しかし外国人に日本人は人をみて値段を変えると思われることになる。」と答えた。
通訳官がこれを聞き、商館長に伝えたところ、恥じ入ってただちに追加の150金を支払い、2巻を受け取った。この後長崎から年に数100枚の依頼があり、本国に輸出された。シーボルトは帰国する直前に国内情報を漏洩させたことが露見し、北斎にも追及が及びそうになった。(シーボルト事件)
オランダ国立民族学博物館のマティ・フォラーによると、1822年のオランダ商館長ブロムホフが、江戸参府の際日本文化の収集目的で北斎に発注し4年後受け取る予定としたが、自身の法規違反で帰国。後継の商館長ステューレルと商館医師シーボルトが1826年の参府で受け取った。現在確認できるのは、オランダ国立民族学博物館でシーボルトの収集品、フランス国立図書館にステューレルの死後寄贈された図だという。西洋の絵画をまねて陰影法を使っているが絵の具は日本製(シーボルトコレクションでは紙はオランダ製)である。
幽霊役で人気だった歌舞伎役者の尾上梅幸(のちに三代目尾上菊五郎)が北斎に画を依頼したことがあった。ところが招いても北斎がまったく来ないため、有名人らしく輿に乗って北斎宅に訪問した。もともと貧しい家で、掃除もしたことのない荒れ果てた室内は不潔極まりなく、おどろいて毛氈(敷物)を引かせた後入室し着座。一礼しようとすると北斎は「失礼だ」と怒り出し、机に向かって相手もしようとしなくなった。ついに梅幸も怒って帰ってしまった。
後日梅幸が非礼を詫びると2人は親しくなった。普段の北斎は横柄ということはなく、「おじぎ無用、みやげ無用」と張り紙するように形にはこだわらない人物だった。
津軽藩主が屏風絵を依頼し、使者が何度も北斎を招いたがいっこうに赴こうとしなかった。10日ほどしてついに藩士が北斎宅までやってきて、「わずかばかりではありますが」と5両を贈って藩邸への同行をうながし「屏風が殿のお気に召せば若干の褒美もありましょう」と言葉を添えたが、北斎は用事があると応えて行かなかった。数日してまた藩士が訪問し再度同行を促したが、また北斎は断った。とうとう藩士は憤慨し「この場で切り捨てて、私も自害する。」と怒り出してしまうが、集まった人々が藩士をなだめ、北斎に出向くよう勧めるなどと大騒ぎになった。それでも頑として拒否し続ける北斎は「じゃ前にもらった5両返せばいいんだろう。明日金を藩邸に送りつけてやる。」と言い出したので、藩士も人々もあきれはててしまったが、その日はなんとか収まった。
数カ月後、招かれないのに唐突に津軽藩邸に現れ、屏風一双を仕上げて帰った。常に貧しく不作法な北斎であったが、気位の高さは王侯にも負けず、富や権力でも動かないことがあった。
北斎は晩年になっても画法の研究を怠らず続けていた。
北斎は「人物を書くには骨格を知らなければ真実とは成り得ない。」とし、接骨家・名倉弥次兵衛のもとに弟子入りして、接骨術や筋骨の解剖学をきわめ、やっと人体を描く本当の方法がわかったと語った。
弟子の露木為一の証言では、「先生に入門して長く画を書いているが、まだ自在に描けない…」と嘆いていると、娘阿栄が笑って「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。何事も自分が及ばないと自棄になる時が上達する時なんだ。」と言うと、そばで聞いていた北斎は「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという。
ある時、元勘定奉行、久須美祐明が北斎を招き席画を書かせた。最初の2、3枚はふつうの細密な絵を描いた。ちょうどその席に子供がいたので、北斎は半紙をひねって渡し「これに墨をつけて紙の上に垂らしてごらん」と言った。子供が言われたとおりにポタポタと墨を垂らすと、北斎は無作為に垂らされた黒い染みに自在なタッチで筆を加え、たちまちのうちに奇々怪々なお化けの絵に仕上げてしまった。一瞬のうちの妙技に、見物していた人々は驚きの声を上げた。
この日は夕方から深夜まで子供と遊びながら画を描いた。同行者は、先生は誰の言うことも聞かないので、どんな絵を描こうとも意のままに描いてもらうしかない、と述べたという。
11代将軍徳川家斉は北斎の画力を聞きつけ、鷹狩の帰りに滞在した浅草伝法院に北斎他を呼び画を描かせた。1人目谷文晁がまともな絵を書き、2人目に北斎が御前に進み出たが恐れる気色なく、まず普通に山水花鳥を描いた。次に長くつないだ紙を横にして刷毛で藍色を引いた。そして持参した籠からだした鶏の足に朱を塗って紙の上に放ち、鶏がつけた赤い足跡を紅葉に見立て、「竜田川でございます」と言って拝礼して退出した。一同はこの斬新な趣向に驚嘆した。
弟子が語るには、北斎自身は将軍の前に出ることを無上の栄誉に感じ大いに喜んでいたが、礼儀を正し窮屈なことには困ったという。また長屋の大家は将軍にご覧に入れるとの内命があると、トラブル・不祥事の心配な北斎の身柄を預かって拝謁の日まで外出を許さなかった。
役者絵・美人画・名所絵・花鳥画・春画等、多岐にわたる浮世絵を描いている。晩年になると肉筆画を多く残している。
北斎が描いた作品総数は分かっていないが、永田生慈『葛飾北斎年譜』での「版木・版画作品目録」では、1385点 で、これは2冊本も1点と数えており、実際には更に摺物と肉筆画が加わる。数え方にもよるが、挿絵なども1図と数えれば、3万点を越えるという意見もある。
全15編。図数は約4,000とされる版本(彩色摺絵本)。北斎54歳、画号・戴斗の頃(1814年<文化11年>)に初編。初めは絵手本(絵師見習いや職人の意匠手引書)として発表されたものであったが、一般にも広く受け入れ、当初は続きものではなかったが、都合第十五編まで版行された。職人や道具類、ふざけた顔、妖怪、さらには遠近法まで、多岐にわたる内容が含まれる。「#作品画像の10」も参照。
百物語を画題として、妖怪を描いた化物絵。中判錦絵。落款は為一筆。1831 - 32年(天保2 - 3年)頃。版行当初は100に及ぶ揃物として企画されたと考えられている。しかし、今日確認されるものは以下の5図のみである。
「お岩さん」(#4) 「皿屋敷」(#5) 「笑ひはんにや」 「しうねん」 「小はだ小平二」
富士山を主題として描かれた大判錦絵による風景画揃物で、主板の36図、および好評により追加された10図の、計46図。初版は1831年(天保2年)頃に開版、33年頃に完結している。落款は北斎改為一筆。版元は西村屋与八(永寿堂)。
北斎の代表作として知られる。「神奈川沖浪裏」を見たゴッホが画家仲間宛ての手紙の中で賞賛したり、その後の西欧の芸術家に多大な影響を与えたとされている。ドビュッシーが交響詩『海』の着想をこの絵から得たとする主張 は俗説であるものの、初版スコアの表紙には神奈川沖浪裏から写した波が描かれている。波頭が崩れるさまは常人が見る限り抽象表現としかとれないが、ハイスピードカメラなどで撮影された波と比較すると、それが写実的に優れた静止画であることが確かめられる。波の伊八が製作した彫刻との類似性も指摘されている。
各地の漁を画題とした中判錦絵の10図揃物。変幻する水の表情と漁撈にたずさわる人が織りなす景趣が描かれている。1833年(天保4年)頃、前北斎為一筆。
「絹川はちふせ」 「総州銚子」「宮戸川長縄」 「待チ網」 「総州利根川」 「甲州火振」 「相州浦賀」 「五島鯨突」「下総登戸」 「蚊針流」。
版行されなかった版下絵2図と、版行された絵より複雑で詳細な墨書きがなされた初稿と考えられる版下絵が3図伝わることから、本来浮世絵で通例の全12図の版行予定だったと想像される。しかし、採算に合わないと版元に拒否され、北斎はしぶしぶ修正したが、残り2図は結局折り合いがつかないままお蔵入りとなったと考えられる。
落下する水の表情を趣旨として全国の有名な滝を描いた大判錦絵による名所絵揃物全8図で、版元は『富嶽三十六景』と同じ西村屋与八(永寿堂)。天保4年(1833年)頃、前北斎為一筆。
「下野黒髪山 きりふりの滝」 「相州 大山ろうべんの瀧」 「東都葵ケ岡の滝」 「東海道坂ノ下 清流くわんおん」 「美濃ノ国 養老の滝」 「木曽路ノ奥 阿彌陀ヶ瀧」(#3) 「木曾海道 小野ノ瀑布」 「和州吉野義経 馬洗滝」
全国の珍しい橋を画題とした全11図の名所絵揃物。大判錦絵。1833 - 34年(天保4 - 5年)、前北斎為一筆。実在しない橋も含まれる。
「摂州安治川口天保山」 「かめゐど天神たいこばし」 「足利行道山くものかけはし」 「すほうの国きんたいはし」「山城あらし山吐月橋」 「ゑちぜんふくゐの橋」 「摂州天満橋」 「飛越の堺つりはし」「かうつけ佐野ふなはしの古づ」 「東海道岡崎矢はぎのはし」 「三河の八ツ橋の古図」
(にくひつ がじょう全10図一帖からなる晩年の傑作。肉筆画(紙本着色)でありながら版元の西村屋与八から売り出された。1834 -39年(天保5 - 10年)、前北斎為一改画狂老人卍筆。正式な作品名称は、木版刷りの原題簽より「前北斎卍翁 肉筆画帖」。天保の大飢饉(1833年 - 1839年)の最中、版元たちとともに休業状態に追い込まれた北斎は一計を案じ、肉筆画帖をいくつも描いて店先で売らせることで餓死を免れたと伝えられる。ただし、大飢饉の前に出された肉筆画帖発売の広告も知られている。現存全図が揃った完全な状態で残っているのは3帖のみであるが、肉筆画帖は当時、もう少し多く発売されていたらしい。
「福寿草と扇面」「鷹」「はさみと雀」 「桜花と包み」 「蛇と小鳥」 「不如帰と虹」 「鰈と撫子」(#16) 「蛙とゆきのした」(#15) 「鮎と紅葉」(#14) 「塩鮭と鼠」(#13)。北斎館、香雪美術館、葛飾北斎美術館所蔵で、香雪本が最も原装に近い。3冊の収録順もそれぞれ入れ違いが見られるが、現在当初の並び順を知るのは不可能である(上記は北斎館の順番)が、最初は「福寿草と扇面」、最後は「桜花と包み」だと考えられる。
半紙本全三冊からなり、初編1834年(天保5年)刊行、二編は1835年(天保6年)、三編は刊行年不明。版元は 、初編・二編が西村屋佑蔵ほか。三編は永楽屋東四郎。画号は、前北斎改為一改画狂老人卍。
富岳の祭神、木花開耶姫命(このはなさくやひめ)、孝霊天皇治世の富岳出現から始まり、1707年(宝永4年)の宝永山出現を交えたり、朝鮮通信使(1811年<文化8年>か)、富士講登山の様子など、『富岳三十六景』が何処から見たのかに拘ったのに対し、『百景』は「○○の不二」といった題に見るように、気象条件や動感、何処を描いたのか分からない、北斎自身の意向がより明確になっている。 より幅広いテーマを取り上げている。
しかし、これらの作品よりも多く取り上げられるのは、 尋常ならざる図画への意欲を著した、一・二編での跋文(後書き)である。
「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」
天保6年(1835年)から天保9年(1838年)、北斎卍筆。百人一首の歌意を乳母が判りやすく絵で説くとの企画のもと製作された、北斎最後の大判錦絵揃物。全100点の予定だったが、版元の西村与兵衛が版行途中で没落したため、「猿丸太夫」など27枚で中断(内1枚は校合摺のみ)。また当初の企画に反して、実際の絵ではかえって解釈し難い図も多く含まれており、当時は不評だったことも中断の理由と考えられる。北斎自身はこの企画に強い意欲があったらしく、全100図の版下絵を描いていたと見られる。現在、版行作品と校合摺、版下絵など合計91点確認されており、版下絵は遺存する数の多さや繊細な表現から晩年期における北斎肉筆画の基準作として重要。フリーア美術館や大英博物館などに分蔵。
信州小布施を生地とし造酒業を主とした豪農商にして陽明学等学問にも通じた高井鴻山(文化3年 - 明治16年〈1806年 - 1883年〉)は、江戸での遊学の折、北斎と知り合い、門下となっている。この縁によって数年後の天保13年(1842年)秋、旅の道すがらとでもいった様子で齢83の北斎が小布施の鴻山屋敷を訪れた。鴻山は感激し、アトリエ「碧漪軒(へきいけん)」を建てて厚遇。以来、北斎の当地への訪問は4度にわたり、逗留中は鴻山の全面的援助のもとで肉筆画を手がけ、独自の画境に没入していった。このとき描かれたものが、小布施の町の祭り屋台の天井絵であり、岩松院の天井絵である。
上町祭屋台天井絵は「男浪〈おなみ〉」と「女浪〈めなみ〉」の2図からなる『怒涛図』であり、東町祭屋台天井絵は『鳳凰図』(#8)および『龍図』の2図がある。
『怒涛図』の絢爛たる縁どりの意匠は北斎の下絵に基づき鴻山が描いたものであるが、当時は禁制下にあったにもかかわらずキリシタンのものを髣髴(ほうふつ)とさせる1体の有翼天使像が含まれている。
(はっぽうにらみ ほうおうず)長野県小布施町にある曹洞宗寺院・岩松院の本堂、その大間天井に描かれた巨大な1羽の鳳凰図。嘉永元年(1848年)、無落款、伝北斎88歳から89歳にかけての作品である。肉筆画(桧板着色)。
由良哲次説によると、北斎は83歳のときを初めとして4度、小布施を訪れているが、本作は、4度目の滞在時のおよそ1年を費やして描き込まれ、渾身の一作を仕上げた翌年、江戸に戻った北斎は齢90で亡くなったと言われていた。しかし現在では、本図が描かれたとされる嘉年元年6月に、北斎は江戸浅草で門人・本間北曜と面談し、北曜に「鬼図」(現佐野美術館蔵)を与えていた事実が確認され、北斎が89歳の老体をもって小布施を訪れ、直接描いたとする説には否定的な見解が強くなっている。(娘の葛飾応為が手伝って描いたものではないかと推測されている)。
21畳敷の天井一面を使って描かれた鳳凰は、畳に寝転ばないと全体が見渡せないほどに大きい。伝北斎の現存する作品の中では画面最大のものである。植物油性岩絵具による画法で、中国・清から輸入した辰砂・孔雀石・鶏冠石といった高価な鉱石をふんだんに使い、その費用は金150両と記録される。加えて金箔4,400枚を用いて表現された極彩色の瑞獣は、その鮮やかな色彩と光沢を塗り替え等の修復をされることもなく今日に伝えられている。
なお、平成2年(1990年)には、画面中央下にあって逆さまの三角形を形作る白い空間(右に示した下絵では黒い空間)が富士山の隠し絵であることが、当時の住職によって発見されている。また、製作手段については、下で描いて完成させたものを天井に吊り上げたと推定されている。
(きのえのこのまつ)春画の版本(色摺半紙本)で、その中の「蛸と海女」がよく知られる。文政3年(1820年)頃版行。
代表作『富嶽三十六景』は単独項目を参照のこと。
北斎の門人は数多くおり、蹄斎北馬、魚屋北渓、昇亭北寿、柳々居辰斎、葛飾北岱、葛飾北泉、葛飾北嵩、柳川重信、牧墨僊などがよく知られている。ただし『葛飾北斎伝』によれば北斎は「自ら教授することを好まず、其の門人たらんを請ふものあれば、自ら画きし刻板の画手本を出だし、先づ画かしめ、そここゝと、短所を指して、教へたるのみ」という態度だったという。
歌川国芳、歌川国直、渓斎英泉ら多くの絵師にも影響を与えている。
全くの別人であるが、葛飾北斎を名乗る絵師が北斎の没後に数名いたと考えられている。二代目葛飾北斎のほか、江戸橋場町の神社の杉戸に絵を描いた人物も「葛飾北斎」を名乗っていたという。『葛飾北斎伝』には二代目北斎について述べたあと、以下のくだりがある。
「真崎の石浜神社」とは、現在の東京都荒川区にある石浜神社の事である。この神社の杉戸に「牛馬の図」があり、それに「葛飾北斎」という署名があったという。『葛飾北斎伝』は「何人なるを詳らかにせず」と述べ、すなわちこれは世に知られる浮世絵師の葛飾北斎ではなく、また二代目の北斎でもない別人としている。「画風は、葛飾にあらず、土佐の風に近し」ともあり、実際にはどのような素性の人物だったのか全くの不明である。『浮世絵師伝』は二代目北斎を名乗ったとされる橋本庄兵衛(橋本北斎)と、この石浜神社の杉戸絵を描いた「葛飾北斎」について、「橋本北斎が居所の山谷と該神社の真崎との地理的関係を考ふれば、或は両者同一人なりしやも知れず」と述べているが、これも定かではない。
また安政元年(1854年)刊行の『雷公地震由来記』の口絵にも画中に「北斎筆」とあるが、これも二代目北斎のことなのか、それとも違う人物が「北斎」と称して描いたものなのか明らかではない。
北斎またはその作品に関連する施設・店舗、作品など。
晩年の北斎が4年間を過ごした信州小布施(現・長野県上高井郡小布施町。「#生涯」の「天保15年」、および、「#信州小布施の肉筆画」参照)にある博物館。1976年(昭和51年)完成、2015年(平成27年)にリニューアルオープン。北斎の作品が多数展示されている。
東京都墨田区亀沢1丁目から錦糸公園の先の錦糸橋(横十間川)につきあたるまでの、かつての江戸・本所南割下水の排水路を暗渠(あんきょ)化して道路にした通り。東京都江戸東京博物館の建設を機に整備され、この名に改められた。
正確な根拠は不明ながら、生地とされる割下水の南部に位置することを基として、かつては亀沢側の起点付近に「葛飾北斎生誕の地」の碑が建っていたが、現在は撤去されている。また、亀沢から長崎橋跡(大横川親水公園)までの区間の照明灯には北斎の浮世絵が貼られ、携帯バーコード・サービスによって解説文の閲覧が可能となっていた(NTTドコモの提供、現在は終了)。2016年11月22日には、通り沿いにすみだ北斎美術館が開館した。